作文 | ナノ
びいどろの花


「空がうつってたから、あんまりきれいに、だからわたし落っこちちゃっただけなのよ」
つんと、しかし面映く彼女はリアルを見てしまう。紅潮も光の細い水底では仄白くかき消された。息のできるようにしてやったじゃないか、そしたらここは空となにも変わりない、いっしょに生きよう、と孤高の王のことばは泡になって小鳥のきめ細やかな頬を滑るのみである。鳥はなぜ魚になれないのだろう。あたたかな海だ。不自由もない。弱者を守れるだけの強さがあるのだと、うぬぼれていた。
「帰んなきゃ」
「まぬけには帰れねえよ」
「道を教えてくれないの?」
見つめられると、ちいさな魚によく似た、噂にきくだけの陽だまりの色をしている。おれには縁がないんだ、やわらかな髪の、萌木色だってさ。こいつはおれと共有できるはずだったすべてを、空の青にゆだねて置いてきてしまった。ノスタルジア、海の青では代われない。仮にいま、うまくいったとして、だけど脆い羽根だ、いつかはやすりの肌で傷つけてしまう。水に濡れてかわいそうなほどちいさく痩せてしまった。だまして籠にとじこめることだってできるんだ、でも、こいつは疑わない。
「どうせ教えたって泳げねえくせに生意気だな」
「あのね、ここで見たことないものたくさん見つけたし、知らないこともたくさん、わたしあなたや璃緒さんといっしょにいるの楽しかったよ、でも」
「運んでってやる、だからもう黙れよ」
ラピスラズリの心臓が重たかった。小鳥がめいっぱい話すから、酸素が追いつかないのだ。おれのものを何でも取って指図しやがって、いちおう、ここの王なんだぜ。妹の、璃緒が泣いている。真珠が転がってくるから分かる。あれですぐ泣くんだ、はじめて、女友だちができたと言っていた。ばかだ、落っこちてきたドジな鳥なんか、殺してしまえばよかったのに。どうしてだ。「あなた」なんて遠ざけて、初めから名前なんてなかったのか。その羽根を尾鰭に変えて、おまえを人魚にすればよかった。強欲の化身だ。ぴったりじゃないか。そんなやつが、なぜ、天使みたいに、……偽善なんてくそくらえだ!
「落っこちたときを思い出すよ、あのときも、こうやって抱いてくれたじゃない? 海の泡を星だと勘違いして、まだお昼なのに星、変だなって、そしたら」
「黙れって言ったぜ」
「おねがい、そしたらね……こわい顔した神さまがわたしをこうして導いて魚の呼吸をくれた、うれしかったのよ、見かけが違っても」
うれしかっただって。その神はいつまでも魚のままでいてほしかったのに、おまえはなにも知らない、最初から口先ばっかりで神なんて信じちゃいないんだ。背をかかえる腕をさまたげる、真っ白な両翼をひきちぎってしまったらどんな顔をするだろう。傷つけるばかりでなににも擦り寄ることができない生き物だった。抱いていたって、抱きしめることはできなかった。小鳥は凌牙を恐れなかった。「おびえるように抱くのね」と、ただそれだけ言って微笑った。まるで誰かを切り取って貼りつけたかのように、継ぎ接ぎに大人びた部分があった。それが腹立たしい。砂に隠れた毒針だった。海流だった。おれはそれに気づかぬまま通りすぎたか、追い越したかしてしまったのだ。
「ねえ、わたしの涙は真珠じゃないんだよ」
とつぜんに身体がこわばった気がして、浮上を続けていたふたりはひゅんと沈んだ。やわらかな羽根がいくつか舞って、世界にはこんな天気もあったかもしれない。濡れてみすぼらしいはずの羽毛は彼の鼻腔に赤ん坊の甘さを残して、彼の額に水のそれとちがう停滞した冷たさを誇った。このままではいけないと、凌牙にだって分かっていた。空と海と地とが断たれたあのころ、神など、いなければよかった。
「壊してもいいの、なんにも、価値なんて」
あるさ、もう何千年もまえにおまえを知っていた。臆病と呼ばれてもいまさら壊せない。苦々しく歪ませているうち、今度は海の王ではなく鳥の本能がふたたびふたりを水面へ運んだ。その羽根がなくたって、おまえは地上で暮らすことを選ぶだろう。手放すことも翼をもぐこともできずに、ゆるやかに昇ってゆくのを感じるばかりで、水泡の表面に映るのは、いまだ本物を知らぬ虹ばかりだった。認めなくては。おれには海しかない。おまえの言う虹も、日光浴のあとの睡たげな匂いも、遷り変わる草花もなにも知らないのはおれのほうだ。追いかけるには、この海に守るものが多すぎた、けれども繋ぎ留めるにはあまりに苦しい場所だ。声のない懺悔を聞きながら、世界を知る少女は涙を溶かし肌を削って、かなしい王の肉体を抱き続けた。コバルトの波間から顔を覗かせるまで。流れ漂った血だけが、それを凌牙は珊瑚と称し、小鳥は紅玉と喩えたが、たしかに同じ色をしていたのである。
「王さまだ、見たことないくらいほんとの」
玻璃の境界がふたりを分とうとする。小鳥は手をひかない。縋れば、陸で生きられる肺を得られたかもしれなかった。絡みあったからだが解かれてゆくまでを凌牙はだまって堪えていた。むかしは同じだったものが、とてつもない力で引き剥がされてしまう。愛称があった。たしかにそう呼ばれていた。思い出してもなんの糧にもならない記憶だ。小鳥が手を離す瞬間にこぼした涙を、はじめて凌牙ははっきりと見たのだった。
「なんでだろうね、わたしたち」
涙声は真珠ではなく、鋭い水晶になって突きつけられた。小鳥は受けいれ溶け込み、凌牙は外界を憎むだけだ。その羽根はあっけなく乾いて彼女は行ってしまう。あえて突き放したのだと、自分を守るので精いっぱいの弱さだった。「ほんとの王さま」とは何を思って示したのだろう。忘れようとすればするほど光は針先ほどになって彼はその境遇すら恨めしかった。王とその妹はやがて狭い世界でナッシュ、メラグと呼ばれるようになる。








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