幻の彼方





 ロードバイクが好きだった。かっこよくて、自分の足で漕げば漕ぐほど風を切って速く前へと進んだ。坂はあまり好きではなかったが、平坦な道で体が千切れるんじゃないかと思うくらいペダルを踏んで、スピードを上げて、スプリントで勝負することはとても気持ちがよかった。
 そして、勝負に勝ったときの快感。ばらばらに壊れそうで痛い体も、破けるんじゃないかというくらいポンプする心臓も、酸欠でぐらぐらする頭も、何もかも吹っ飛んでいくような快感が、体の奥底から湧き上がってくる。その瞬間がたまらなく気持ちよくて、最後のゴールを誰よりも先にくぐるために、俺は走っているんだと思った。

 それは、きっと俺がロードバイクで走り続ける限り、一生変わらないものだと思っていた。あの日、自分の走りでひとつの命を奪うまでは。





 あるレース中の山道で、数メートル先を走る選手を左側のインコースから追い抜こうとしたとき、沿道の林から何かが飛び出してきた。それが野うさぎだと認知したときには、俺は自分のロードバイクから落車していた。
 左半身に衝撃を受けて、頭のなかが一瞬ゆれた。膝や頬を擦りむいた気がしたけれど、すぐさま態勢を立て直してロードバイクを走らせた。とんだタイムロスだと思った。あの一瞬、先行する選手を抜くチャンスだったというのに。その苛立ちを感じながら、とにかくロスを挽回するために前へ前へと進んだ。

 結果的に、レースは優勝した。脇目も振らずにひたすら前だけを見て、必死でペダルを踏んだ結果だった。
 そして、何気なく通った帰り道、俺が落車したあたりに、ふたつの小さな物影が見えた。ロードバイクのスピードを落とすと、次第にその物影が鮮明な色を帯びてきた。それは、レース中にぶつかった茶色い野うさぎだった。野うさぎは、道端でじっと動かなくなっていた。
 心臓が何かに鷲掴みされたかのように圧迫されて、途端に息苦しくなった。ロードバイクから降りて、恐る恐るそこに近づいていく。頭のなかは悪いイメージで埋め尽くされていたが、ほんの少しだけ、まだ息はあるんじゃないかと期待していた。
 倒れたうさぎの横にはひとまわり小さくて、そっくりの色をしたうさぎが座りこんでいた。おそらく、横たわったうさぎが親で、座り込んでいるのはその子どもなんだろう。子うさぎは、時折耳をひくひくと動かしていた。そして、俺が近づいても、その子が逃げることはなかった。
 ばくばくとうるさい心臓を宥めるため、ごくりと唾を呑み込んだ。ひとつ深呼吸をして、横たわった親うさぎの顔を覗いてみると、真ん丸の目は見開かれたままで、もう何も映してはいなかった。子うさぎが、親うさぎのお腹のあたりに、頭を擦りつけていた。まるで「起きて」と言っているように。

 淡い期待は真っ黒に塗りつぶされた。けれど、沈んでいく思考のなかで、本当に俺のせいなのか、俺を先行していた選手がいたせいじゃないのか、飛び出してきたうさぎのせいじゃないのか、とみっともなくて最悪な言い訳を繰り返した。
 けれど、どんな言い訳も意味を成さず、ようやく気づいた。俺が勝ちに執着するばかり、周りが見えないばかりに、この親うさぎの命を奪ってしまったということに。そのせいで、傍にいるこの子うさぎはひとりぽっちになってしまったということに。そして、そのことを認められなかった卑しい自分に。
 空が真っ暗になって、俺を頭の上から飲みこんでいった。抗うことはできなかった。息ができなくなる。
 滲む視界は、いったい何に対しての感情なんだろう。わからないけれど、膝をついてみっともなく泣いた。身体の水分が全部抜けるくらい、声が出なくなるくらい泣いて、最後に何かが壊れる音がした。薄いガラスを踏みつぶしたような音が。

 動かなくなった親うさぎは、土の中に埋めた。その場に放置することだけはできず、回らない頭で考えた結果だった。スコップもなにも持っていなかったから、とにかく手持ちのもので穴を掘って、そっと埋めた。近くに咲いていた、黄色い野花も一緒に添えた。一緒に連れてきた子うさぎは、大人しく俺のとなりに座りこんでいた。

「ごめんな、俺、おめさんの母親殺しちまった」

 子うさぎは、何も言わなかった。当然だ。それでも逃げることなく、ずっと俺のそばにいて、母親が埋められるのをじっと見ていた。






 ロードバイクが好きだった。かっこよくて、速くて、勝負に勝ったときの快感は言葉にできないほど気持ちよかった。けれど、俺は何かを忘れていたんだ。そしてもう、思い出せないんだ。


140706

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テーマ「人外ファンタジー」
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