#8 盲目に灯りを

 さっきから、ポケットの中で携帯が何度も何度も震えている。きっとエレンからの連絡だろうと思うと、怖くて取り出すことができなかった。足早に仕事場である研究室に向かい扉を開けようとすると、がたりと鈍い音がして扉は開かなかった。よくよく見ると、そこには外出中の札がかかっている。4限に学部で授業が入っていると言っていたから、そのまま昼食に出かけたのだろうか。
 わたしは、鞄から研究室の合鍵を取り出して、身を隠すように部屋のなかに入った。ふらつく足どりでソファーに倒れ込み、深呼吸を2、3度くりかえすと、少しばかり気持ちが落ち着いてきた。携帯をポケットからおそるおそる取り出すと、画面には着信が5件、メールが2件来ていた。ぽちぽちとボタンを押して確認すると、着信はすべてエレンから。この調子だとメールもエレンからだろうかと思って画面を移動すると、1件はエレンからだったが、もう1件はリヴァイ先生からだった。エレンのメールを開封する勇気はなく、リヴァイ先生のものだけ開いてみると、簡潔に「昼飯は食べたのか」と入っていた。それどころではないわたしは、メールを返す気にもなれなくて、ソファー携帯を投げ出した。









 びしり、と額のあたりに激痛が走り、思わず変な声が出る。目を開けると、眼前に平手を構えたリヴァイ先生の顔があって、また変な声が出た。この人は、わたしがデコピンで起きなければ平手打ちをするつもりだったのだろう。

「お前、何してんだ」
「す、すみません!」

 リヴァイ先生の低い声が、お腹の底から恐怖心を引き起こす。加えてじとりとした視線で見られると、まだ何か言われるだろうかと身構えたが、先生は何も言わず向かいのソファーに腰をかけた。
 テーブルにはマグカップが2つ置かれていて、すんと鼻を動かすと、香ばしいコーヒーの香りがする。先生は視線でそれを飲むように促したので、わたしはそれに従った。

「さっき、エレンが来たぞ」

 先生のその言葉に、わたしの体が強張る。どきり、心臓が音を立てた。

「随分息を切らしてお前がいるかと聞いてきたが、とりあえずいないと言っておいた。」
「…そうですか。」

 安堵の溜息のようにもれたその言葉が、自分自身でばかばかしく感じた。

「先生、彼を知っているんですか」
「授業で見かける。終わったあと俺を捕まえて質問してくることもあるから、顔を覚えた。」

 リヴァイ先生の回答に、わたしは気の抜けた返事をする。マグカップに息を吹きかけると、コーヒーの湯気で目の前が霞む。そうやって世界が少しぼんやりするだけで、今のわたしはひどく安心できた。

「お前らの下らない痴話喧嘩に、他人を巻き込むんじゃねぇよ。」

 マグカップをテーブルに置こうとしたわたしは、動揺してそれを倒しそうになる。運よく倒れなかったことに安堵しながらも、死にかけの魚のように口をぱくぱくさせながらリヴァイ先生を見ると、彼は独特の持ち方でカップを手にし、気にする様子もなくコーヒーを啜っていた。

「ち、痴話喧嘩じゃないです」
「違うのか」
「いや、ええと…」
「付き合ってるんだろう」

 その言葉に、わたしは大きく目を見開く。リヴァイ先生に、エレンと交際していることは話していない。わたしの反応を見て、リヴァイ先生は「違うのか」と尋ねる。

「ち、違わないですけど、わたし、先生に話したことはないと思って」
「エレンから聞いた。」

 いつの間に。身体から力が抜けていき、思わずソファに身を委ねる。今まで、リヴァイ先生に恋人はいるのかと聞かれたことがないから黙っていただけだと思っていたけれど、実は隠し事をしているような負担を感じていたのだと今さら気がついた。

「…わたしが勝手に逃げてるだけです。」
「ほう」

 少しだけ眉を上に持ち上げたリヴァイ先生を見て、わたしは項垂れる。胸の奥がじくじくと苦しいわたしは、彼のことばに勝手に傷ついていた。かといって、リヴァイ先生がどう返してくれれば、わたしは傷つかずにすんだのだろう。そのことさえも想像できないのに、傷ついて、そんな自分を悲しく思うなんて、ばかげた話だ。
 リヴァイ先生は知っていたんだ。わたしとエレンが付き合っていることを。知っていて、優しくしたり、食事に行ったり、家に呼んだりしていたんだ。
 照明の点いていない部屋のなかは、日中だというのに薄暗い。けれども、ふいにブラインドから差し込んだ昼の陽ざしのせいで、ぼんやりと明るくなった。
 わたしはその瞬間、はっと息を呑む。それは、わたしが惹かれていたリヴァイ先生の雰囲気そのものだった。急に時がまき戻ったような感覚に襲われる。教壇の向こうに立つ彼をふわふわとした心地で見ている過去のわたしを、今のわたしが恨めしそうに見ている。



「リヴァイ先生は、誰かをすきになったことがありますか」



 その言葉を意識化できたのは、目の前のリヴァイ先生の表情が変わったからだった。訝しげな視線がゆるゆると解かれていき、驚いたものに変わる。そのとき、わたしは先ほどの質問を無意識でしていたことに気づいた。そのことに気づいたのに、わたしのくちびるは、意識と解離したように言葉を紡ぐ。

「わたしには、すきになったことを忘れられない人がいるんです」
「………」
「それなのに、エレンをすきでいることは、おかしいんでしょうか」

 すべてを吐き出したあとに、太ももに乗せた手が震えていることに気がついた。わたしは両手の指を絡ませて、ぎゅうっと力を込める。切り忘れていた長い爪が皮膚に食いこんで、ちりちりと痛い。
 こんなこと、彼に聞くべきことではないとわかっていた。それなのに、こうして問いかけている理由は、単なる当てつけだった。それを咎めるように、耳の底が低く唸りをあげている。それが煩わしくて、ごくりと唾を飲み下す。

「お前は、ひとつのことを終わらせないと次に進むことができないのか」

 腕を組んだリヴァイ先生は、深くソファーに座り直したけれど、わたしから視線を外すことはなかった。

「人の記憶は曖昧だが、強固だ。忘れられないものもある。それは当たり前だ。誰にだってある。」
「はい」
「けれど、その記憶に留まることはできない。生きている限り、記憶は積み重なっていく。」

 リヴァイ先生の言うと通りだ。ひとつの記憶にわたしたちは留まることはできない。生きていれば、日々新しい記憶がその上に積まれていく。どう抗おうとも、自分の意志で記憶は消せない。忘れたと思っても、思い入れの強いものであれば、些細なきっかけで何度でもよみがえってくる。

「何を恐れてるかは知らないが、もっと今を生きてみろ。」

 いま目の前にいるリヴァイ先生のことをすきだった過去のわたしを、わたし自身が忘れることはできない。あの気持ちは、わたししか知らない宝物のような感情だった。誰にも知られないように、ひそかに抱いていたもの。うす曇りの世界を淡い光が射しこんでいき、その雰囲気のなかでぷかぷか浮かんでいたわたしの意識。ゆっくりと全身に広がってくる倦怠感。喉の奥がきゅうっと苦しくなって息も忘れる、あの甘くてほろにがい味。
 とても、しあわせだった。だから、それに縋っていたかった。それを、守っていたかった。

 ソファーに放り投げていたわたしの携帯電話が震え出し、ちかちかと光を発する。すぐに途切れたそれは、メールの受信を知らせるものだった。携帯を手にしないわたしを見てか、リヴァイ先生は溜息をつく。彼の言わんとする言葉は、とうに想像がついている。わたしは「すみません」と短く断りを入れて、研究室を出た。









 ―――今日の夜、ナマエさんの仕事が終わったら会いたいです。 
 簡潔なそのメールは、エレンの焦りを表しているようだった。静かな研究棟の廊下にしゃがみこみ、わたしはエレンから送られてきたメールを順に読み進めていく。ひとつひとつ目を通すたびに、視界がやんわりと歪むのがわかった。あのときと同じ、喉の奥が苦しくなって、甘くてほろにがい味がして、そのあとに、不思議とそこから身体がじんわりあたたかくなってくる心地。それでも、心の真ん中は埋まらないままだ。

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