#3 光射す部屋

 今のバイト先であるリヴァイ先生の研究室に行くと、彼は積み上げられた参考文献や書類に囲まれて、いつも以上に青白い顔でパソコンとにらめっこをしていた。

「お、おはようございます。」

 どもったわたしの挨拶に対し、彼はメタルフレームの奥にある目をぎろりと向けてきた。

「…ナマエか。」

 おそるおそる、もう一度挨拶をしてみるが、リヴァイ先生は何でもない様子でパソコンに視線を戻した。この人の目つきの悪さはもともとで、おそらく彼はわたしを睨みつけたつもりなんて毛頭ないのだ。

「先生、朝一でこんなこというのも申し訳ないですけど、少し休憩されては?」

 パソコンに目を向けたまま彼が「ああ」と短く返事をしたのを確認して、わたしはコーヒーを淹れにいく。











 この研究室でバイトを始めたのは、修士課程も2年目となった今年の春からだ。ここもゼミの担当教授に紹介され、週に2、3日ほどリヴァイ先生の研究補助を行っている。
 リヴァイ先生は、うちの大学の准教授であり、研究分野の業界では若手のホープと期待されている人物だ。大学では専門教科の概論を担当しており、それは学部で必修科目になっているため、うちの大学に入学すれば必ず受講する授業になっている。
 リヴァイ先生の授業は、もっぱら評判がよかった。つまらない授業にありがちな長い話や余談がほとんどなく、かといってただ教科書をなぞるわけではない。ポイントをしっかり押さえながら、適所で臨床的な知見を入れてくれるので、生徒は退屈しなかった。加えてその端正な顔立ち――先程も露見した目つきの悪さは、涼しい目元とかいいように評されている――も手伝ってか、学校内でも人気の教員となっている。
 一方で研究者としての彼は、そのへんの同業者では骨の折れる量の研究をほとんどひとりでこなしている。稀に、単発でアシスタントをつけていると聞いていたので、今回のアルバイトも単発のものだと思っていた。しかし、蓋を開けてみれば長期の仕事だということを知って、とても驚いた。けれど、長期で安定した収入を得られる方がいいに決まっているので、結果オーライだと考え引き受けることにした。
 リヴァイ先生が長期のアルバイトを雇うなんて前代未聞のことだと思う。それに、彼の人気ぶりと噂話が日々飛び交っていることを考えると、ごく一部の人にだけこの新しいアルバイトのことを伝えた方がいいと判断したわたしは、エレンをはじめとする身近な人にのみ、アルバイト先を伝えていた。
 エレンはリヴァイ先生のファン――もとい尊敬しているようで、まるで自分のことのように喜んでいた。わたしが驚くくらい、エレンはリヴァイ先生がどれだけすごいかを熱弁するので「エレンは先生のファンなんだね」と言うと、神妙な面持ちで「ファンっていうか…尊敬です。その辺のリヴァイ先生の噂して騒いでるやつとは違います」と訂正されてしまった。
 少人数にしかこの事実を伝えていないというのに、噂というものはどこからともなく広がるもので、アルバイトを始めてから数日後には全く知らない人からも興味本位で話しかけられるようになってしまった。その人たちは、皆口を揃えて言う。「リヴァイ先生のアシスタントをやってるって本当ですか」と。その言い方が、「あのリヴァイ先生のアシスタントをしているなんて、いったいどんな人なんだ」と値踏みされているようで、自意識過剰と言われようとも煩わしく、最近はひとりで校内をうろうろしないようにしている。
「あのリヴァイ先生がアシスタントをつけるなんて、やっぱりナマエさんはすごいですね!」
 エレンはそう言って、屈託なく笑った。つられるようにわたしも口角を上げたけれど、謙遜の言葉も出ずにずいぶん顔が強張っていたと思う。
 確かに、リヴァイ先生の近くで仕事ができるということは、光栄なことだし自分の身になるものも多いだろう。修士課程2年目になって、就職についても真剣に考えなければならない。研究者として働ける道を探すわたしとしては、この仕事が足がかりになるかもしれない。

 けれど、わたしの個人的な感情が、この現状を複雑にしようとしていた。なぜなら、わたしが少し前まで淡い恋心を抱いていたのがリヴァイ先生だったからだ。











 コーヒーを淹れて、辛うじて片づいている来客用のテーブルにマグカップを置く。先生はどっかりとソファーに座り、疲れた表情でそれを啜る。眼鏡が外された目元には、化粧でもほどこしたのではないかと思うくらい、くっきりと隈が刻まれていた。その姿がいたたまれなくなって、昼食用に持ってきたサンドイッチを差し出すと、ひとつ手にとって口に運んでくれた。不機嫌そうに食事を取るその姿にさえ、思わずほっとしてしまう。

「徹夜ですね。」
「…気づいたら朝でお前が来た。」
「それを徹夜って言うんですよ。」

 彼は言い返す気力もないのか、もそもそとサンドイッチを頬張っている。レタスとハムとチーズを挟んだサンドイッチには、具材とパンの間にブラックペッパー入りのマヨネーズを塗っている。今朝、エレンに作ったサンドイッチと同じものだ。エレンはそれをおいしい、おいしいと食べてくれたけれど、リヴァイ先生はそんなこと一言も口にしない。
 この人は“仕事の虫”を体現していて、熱中すると徹夜も辞さずに24時間以上仕事ができてしまう。だからこそ、超人的な仕事量をこなすことができるのだと、一緒に働いてからわかった。疲れは今の姿のように体の表に出てくるけれど、さして精神的な苦痛を感じていないところが、人間離れしているように思える。
 かくいうわたしも、このバイトを始めてから深夜まで仕事ができるようになってしまった。彼は、他人に対する気遣いはそれなりにできる人のようで、わたしには休憩や帰宅を促してくれる。けれど、わたしも興味深い研究や仕事内容に熱中してしまい、もう少しと繰り返すばかりに終電を逃すことが数えきれないくらいあるのだ。

「それ食べたら、少し仮眠を取ってはどうですか。」

 自分のデスクに置かれた今日の仕事を確認しながら、リヴァイ先生にそう告げる。今日は一日中入力作業だ。今週中に提出する予定の資料を完成させて、彼にチェックしてもらわないといけない。パソコンに向かい合うことは嫌いじゃないけれど、さすがに一日中だと目も疲れるし肩をはじめとする体の部位も痛くなる。

「1時間だけ寝る。」

 その言葉に、わたしは「わかりました」と返事をした。時計を確認すると、9時15分。この人は起こさなくとも勝手に起きてくるはずだけれど、一応気に留めておこう。何も掛けずソファーに横になったリヴァイ先生に、わたしが使っているブランケットをそっとかける。すると、彼はちらりと目を開けてわたしを見てきた。潔癖の気がある彼は、もしかしてこれが清潔なものなのか気になっているのかと思い、慌てて「大丈夫です、おととい洗ったやつですから」と口にする。そう言ってから、おとといじゃあ彼のお眼鏡に叶わないかもしれないと血の気が引いた。

「…そうじゃねぇよ」

 薄く笑みを浮かべたリヴァイ先生は、ブランケットを肩まであげて、再び目を閉じた。いつものシニカルな笑みとは違う、彼のめずらしい表情に思わずどぎまぎしてしまう。
 どきどきと忙しないわたしの鼓動が、二度と開けることのないと決めていた心の奥にあるがらんどうな部屋のドアをがたがたと揺らして、あのころと同じ気持ちを思い出してしまう。息が、苦しくなる。

 あのころのわたしは、リヴァイ先生の授業を受けるたびに、おかしな浮遊感を味わっていた。切れ長の目が教室を見渡して、ふとわたしのところで止まったような気がすると、ばかみたいに胸が躍った。彼が紡いだ言葉が耳に触れるたび、今まで無意識にできていた呼吸が震える気がした。カフェテリアで彼について話すミーハーな友人に、訳もなくいらだちを覚えた。
 わたしは、リヴァイ先生に恋をしていた。先生のことを、たいしてよく知らないくせに、すきだと思った。わたしは、彼が纏う気怠い空気が、とてもすきだった。曇り空のようなグレイに染まっているけれど、微かに光が射す昼間のような。どうしてもそれに惹かれてしまう自分が、そこにはいた。


140412




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