#2 甘い棘に呑まれゆく

 エレンと出会ったのは、ちょうど去年の今頃だった。大学院の修士課程1年目だったわたしは、所属していたゼミの担当教授に頼まれ、アルバイトとして学部生の授業アシスタントをしていた。わたしの他にも何人かの院生が手伝いに来ており、グループワークのサポートとして、各グループに1人の院生が配置された。
 わたしがサポートとして入ったグループのメンバーのひとりに、エレンはいた。みんな活発な意見を繰り広げるなかで、エレンは特に積極的に発言をし、グループを引っ張っていた。その姿は少しばかり強引な印象も受けたけれど、参加メンバーがよかったのだろう。グループワークはいい雰囲気で終了した。

 授業が終わったあと、エレンはわたしに声をかけてきた。

「ナマエさんもエルヴィン先生のゼミだったんですよね。」
「うん、君も?」
「はい。俺もいま、先生のゼミに入っているんです」

 がやがやと賑やかな教室のなかでも、彼の声は聞き取りやすく、はっきりと耳に届いた。そして、まっすぐにわたしを見つめ、視線がかち合うことも何ら恐れない、意志の強そうな瞳が印象的だった。
 エレンは、教授に勧められて読んだわたしの卒業論文がとてもおもしろかったから、今度話を聞かせてほしいと言ってきた。わたしは、さして深いことは考えずにエレンと連絡先を交換した。自分の論文をおもしろいと言ってもらえたことへの嬉しさもあったし、エレンに対してはとても勉強熱心な男の子だなという印象しか持っていなかった。










 それからエレンとメールのやりとりが始まり、わたしがアシスタントで入った授業で顔を合わせたときには、食事に誘われるようになった。学校外でエレンと会う回数が月に1度だったのが、2度3度と増え、ついには週に3日ほど会うようになって、話す内容が学問や研究の話だけだったのが、日常生活や趣味の話が増えたあたりから、わたしはエレンに対して確かな好意を持っていたし、彼も口にはしないが同様の感情を抱いているのだろうなと感じていた。けれど、わたしはそう言ったことを一切口にせず、彼との他愛のない会話を楽しんだ。
 出会ったばかりのころ、さよならの時間になると「もっと話したいです」とはっきり口にして、その真ん丸な瞳をきらきらと輝かせていたエレンが、会う回数を重ねるにつれてその言葉を口にしなくなり、輝いていた瞳も切なさに満ち溢れた色をするようになった。その姿を見て、心が痛まないわけではなかった。けれど、いつだって「もう帰らないとね」とか「またすぐに会えるよ」とか、そう言った当たり障りのない言葉でごまかしていた。そうすることで、エレンが焦燥感をつのらせていることにも、何となく気づいていた。
 御託を並べるのは簡単で、楽だった。わたしが満足しているふたりの関係性を、崩す必要なんてない。エレンといる時間は楽しくて心地よい。だから、それだけでいい。それ以上はなくていい。そうやって独りよがりにならなければ、わたしはエレンと顔を合わせることもできなくなりそうだった。










 わたしは、今までそれなりの恋愛はしてきたつもりだ。年頃になれば、周りの友人は口をそろえて恋の話ばかりする。総じて語られる甘い雰囲気に憧れたわたしも、何人かの男性とお付き合いをしてみたけれど、わたしが口にした恋愛は、みんなが言うほど甘くもなかった。かといって酸っぱくも苦くもなく、味がしなかった。
 考えてみれば、わたしは自ら異性を愛しいと思うことがなく、どの恋愛も相手からすきだと言われて付き合ったものだった。友人の恋話になんとなく会話を合わせながら笑っていたけれど、どことなく違和感を持っていたのも事実だ。
 あくまで持論だけれども、わたしは恋は相手への一方的な感情で、恋愛は相手との相互作用として生まれる感情や体験と考えている。わたしはそれなりの恋愛はしてきたけれど、恋と呼べる感情を抱いたことはなかった。

 けれど、わたしは大学生になって恋をした。おそらく、憧れと尊敬が強い「すき」だったけれど、彼を見るたびにわたしの心臓が早くなり、声を聴くたび息が震え、視界から消えてしまうたび心が苦しくなった。まるで、体の自由がきかなくなる毒を飲み込んでしまったようだった。恋をするということは、こんなにも苦しくて、気が遠くなりそうで、心地よくて、しあわせなことなのかと思った。
 その人と会うときは、決まって大勢のなかだった。だから、彼がわたしという人間を認識していたかはわからない。わたしを見てほしいと思わないことはなかったけれど、前に出ていく勇気は持ち合わせていなかった。
 大学院に進学すると、彼の姿を見ることはなくなり、人生初めての恋は次第に沈静していった。やっと体の自由が戻ってきたというのに、心の真ん中にはぽっかりと穴が開いたままで、気怠さが残っていた。あの毒は、解毒されずにわたしの体のどこかしらに残っている。
 エレンとの出会いはそんなことがあったあとだったから、わたしも妙に慎重になっていたのだろう。彼に対する好意は確かなものだと感じていたけれど、エレンの熱に当てられているのかもしれないと勘ぐってもいた。










 わたしとエレンの家は、同じメトロの沿線にあって、二駅ほど離れている。何度か家まで送ると言われたことがあるが、「エレンが帰るの大変でしょう」と理由をつけて断っていた。エレンが先にメトロから降りるときは、ホームでぽつりと立ったまま、わたしを見送ってくれる。走り出したメトロが再び地下に潜っていくまで、こちらを見つめている。その瞬間を見るたび、わたしの胸はちくりとかすかに痛んだ。

 ある日、最終よりいくつか前の、人もまばらなメトロにふたりで乗り込んだときのことだった。その日のエレンはいつもより言葉少なで、何かあったのかと尋ねても「何もないですよ」と言葉を濁された。わたしもそれ以上深くつっこむことができずに、いつも通りふるまおうとしたけれど、少しぎくしゃくしてしまったように思う。
 メトロのアナウンスがエレンの降りる駅を告げる。けれども彼は席を立たず、わたしが降りないのか尋ねている間に、メトロは発車してしまった。「あっ」と言うわたしの声は、加速するメトロの走行音に飲み込まれていった。

「どうしたのエレン。何で降りなかったの?」

 そう尋ねると「今日は送っていきます。」とこちらに顔を向けずに彼は言った。少しうつむき気味でいるエレンの表情を読み取ることはできず、わたしはそれ以上何も言うことができなかった。
 それからは、ただまっすぐ前を見ていた。メトロはいつも通り、たたん、たたんと僅かに揺れながら走っていた。真っ黒に染まった車窓には、わたしとエレンが肩を並べて、半分透き通ったまま映っていた。


 乗り越し精算をするエレンを待ってから、わたしたちは改札を出て家まで歩いた。「駅から家までどのくらい時間がかかりますか」と尋ねたエレンに対し「5分くらいよ」と言うと、彼は「近いですね!」と驚きの声を上げた。

「エレンの家は?」
「うちは20分くらいかかります。」
「ちょっと離れてるね。」
「駅からは遠いんですけど、バス停がすぐ近くで学校まではバスで行けるんです。」
「そっか。じゃあ学校へ行くには不便じゃないんだ。」
「そうですね。」

 小さく笑ったエレンは、それからふるふると頭を横に振って「こんなことを話したいわけじゃないんです」とわたしの手をぎゅうっと握りしめて立ち止まった。突然のことに驚いて、ぽっかりと開いた口がふさがらないわたしとは対照的に、エレンは口を一文字にむすんでじっとこちらを見ていた。エレンとはじめて話したときと同じ、意志の強そうな瞳。その双眼は、はっきりとわたしを捉えて逃がさなかった。



「ナマエさんのこと、好きなんです」



 あまりにもストレートなその言葉に、わたしは眩暈さえ覚えて、肺を握りつぶされるような息苦しさを味わった。はじめての感覚に、内側から強く鼓動する心臓が、体の真ん中を打ち抜いてしまいそうだった。わたしは、開けっ放しの口から息を吸い込み、ごくりを飲み干すと同時にくちびるを閉じた。


「ナマエさんのこと、尊敬しています。始めはそれだけだったんですけど、だんだん女の人として、素敵だと思って…」


 だんだんと、エレンの言葉が小さくなっていくとともに、うつむきがちになってしまった。それでも懸命に話そうとするエレンを見ていたら、握られているわたしの手にも自然と力がこもった。「すみません、迷惑ですよね」と手を離した彼に対して、わたしは「そんなことない」と口にする。


「エレン、こっち見て。」


 そう言うと、彼は素直にわたしを見つめる。その瞳がゆらりとゆらいだとき、わたしは反射的に彼の手を力強く握った。握りつぶされたかのように苦しい心臓は、どくんどくんと鼓動を速めて動き続けている。そうして、揺れるこころの奥底に潜めていた気持ちが、ゆっくりと意識にのぼってくる。彼の気持ちに答えたい。そして、潜めていた気持ちを伝えたい。それが何よりの答えだった。
 わたしは、エレンに恋をしている。


「うれしいよ、エレン。」
「ナマエさん、」
「わたしもエレンのこと、すきだよ。」


 意外とスムーズに言葉が紡げたけれど、エレンの頭から煙が出るんじゃないかというくらい真っ赤な顔を見たらわたしまで恥ずかしくなってしまった。それを指摘すると、「ナマエさんもおんなじですよ」と言われてしまった。



「俺とつきあってくれますか?」

 そう問いかけられてしまえば、もう頷くしかなかった。



140405

予定外のエルヴィン先生。年齢など細かいことは気にしない気にしない。




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