#9 毒の味

 夜9時のチャイニーズ・レストランは、いつになく繁盛していた。わたしとエレンが来店したときにはカウンターしか空いておらず、テーブル席はいっぱいになっていた。わたしたちは並んでカウンターの席に腰かけ、頭をつきあわせながらメニューを覗いた。
 注文を終えて、ふと右隣に座るエレンの向こうに視線をむけると、以前も見かけた初老の老人が今日も1人で白酒を舐めていた。あの人はいつもひとりだ。そして、特等席のようにあの場所に座っている。

「今日は、すみませんでした」

 項垂れるエレンを見て、ザーサイの漬物をぽりぽりと咀嚼するわたしの口が止まる。まだ砕けきれていないそれをごくりと飲み干し、喉に残る異物感を水で流しこむ。

「いいよ、気にしてないから」

 エレンの謝罪は、一体に何に対するものなのか。ミカサのことか、そのあと何度も電話をかけたことなのか。わからなかったけれど、わたしはそう答えた。

「…本当ですか?」

 問いかけたエレンの声は、安堵というより疑問だったので、わたしはどきりとする。本当に気にしていないのかと問いかけられているようだ。わたしを捉えて逃さないその目。そうやって見つめられると、わたしはすべてを暴露しなければいけない気分になる。

「ごめん、ちょっと見栄張った。ほんとは結構気にしてた。」
「ナマエさん」
「ミカサに言われたことも、エレンの電話に出られなかったことも。」

 エレンが口を開くのが見えたけれど、それを遮るように店員の中年女性が焼き餃子と白米を運んでくる。その、あまりの空気の読まなさに、お互い笑いがこみあげてきた。

「ま、ご飯くらい楽しく食べようよ、エレン。」

 そう笑いかけると、エレンは少しの間のあと「そうですね」と頷いた。その楽しさが、ただの空元気でしかないことはお互いわかっていた。それでも、辛気臭い顔をして安っぽく小汚いチャイニーズ・レストランで食事を取るよりはましだった。今日に限っては、がやがやうるさい他の客も、激しく鍋を振り続けるコックも、まったく耳障りではなかった。









 お腹いっぱい食事を取り、白っぽい灯りで照らされた店内を出る。何だかとても体力を使った気がして、すっかり深まった夜に身をゆだねると、肩の力が抜けていった。それはエレンも同じだったようで、気の抜けた表情をしている。

「エレン、今日はわたしの家に来る?」
「…行ってもいいですか」
「もちろん。じゃあ、行こうか」

 いつもだったら、店から出るなりくっついてきて指を絡めてくるエレンだけれど、今日はそうしてこなかった。わたしたちは微妙な距離を保ちながら、いつもよりゆっくりとしたペースで夜道を歩く。
 話すべきことを後回しにしたところまではよかったけれど、いざその時間がやってくると、どうしたらいいかわからなかった。 住宅街はしんと静かで、息をすることさえ躊躇われた。わたしのヒールの音がこつこつ小さな音を立てている。
 あの夜みたいだ。エレンがわたしに告白してくれた夜。メトロの目の眩むような灯りを抜けて、ふたりで肩を並べてあるいた夜道。エレンが何か話をしたいのだろうなと思いつつも、何も切り出せなかった。
 今日は、こんなことばかりだった。過去にあったことと今の出来事が歯車がかみあうようにリンクして、頭のなかにふうわりと浮かんでくる。
 結局、わたしたちは家に着くまでだんまりを決めこんでしまった。先送りにしていたことをようやく話し始めたのは、エレンからだった。

「今日は、ミカサが変なこと言ったみたいで、すみませんでした。」

 テーブルを挟んだ先にあるエレンの顔を見つめると、眉根を寄せて、口元を結んで、どうも苦々しい顔をしている。

「ミカサがわたしと何の話をしたのか、聞いたの?」
「聞きました。…結構強引にですけど」

 罰が悪いのか、後半の言葉はずいぶん弱弱しかった。エレンはたまにこういうところがある。良くも悪くも真っ直ぐだから、そのときは自分で正しいと思う行動を取るのだろうけれど、後々冷静になって振り返ったときに自分を咎めることがある。

「ミカサは何て言ってたの」
「ナマエさんが、リヴァイ先生と仲がいいことが、おかしいと」
「だいたいその通りのことを言われたけれど、それはエレンが謝ることじゃないでしょう」
「でも、」
「ミカサにも、彼女なりの考えがあってのことだと思うから」
「…ナマエさんは大人ですね」

 エレンにしてはずいぶん皮肉のようなその言いぶりに、思わず苦笑してしまう。
 わたしは大人なんかじゃない。そもそも、大人の定義とは何なのだろう。年齢的には成人しているけれど、わたしには未熟な部分がたくさんある。現に、過去の恋に対する整理もできていない。それがわたし自身を苦しめて、事態をややこしくしている。
 日中、ミカサに言われた言葉を思い出す。どんな意図があったかはわからないけれど、きっとミカサにとってはその感覚が常識なんだろう。けれど、わたしにはそれができない。エレンのことだけを想って、毎日生きていくことはできない。


「俺は、そんなことに言われて、ナマエさんみたくに割り切れなかった」


 エレンのその言葉は、さっくりとわたしの心を刺した。胸のあたりがちくりと痛み、指で一度だけ、ごまかすようにそこを撫でる。それから、背筋をぴんと伸ばし、髪の毛を耳にかける。

「エレンがわたしを好いてくれるのと同じように、わたしもエレンのことを好きでいれたらなら、どんなにいいかと思う。」
「どういうことですか?」
「エレンは、とても真っ直ぐな気持ちを向けてくれるから」

 エレンは、大きなその目を見開いたあとに、震えた声で「いやです」と口にする。その言葉の意図がわからずに首を傾げると、「俺、ナマエさんと別れたくないです」と少しばかり大きな声で言われた。思わず、わたしの肩がびくりと跳ねる。こんなエレンは見たことがなくて、わたしの心臓はばくばくと脈を早めていく。

「エレン、誤解してるよ。わたしはエレンと別れたいなんて思ってない。」

 慌ててそう言うと、エレンは滲んだ瞳でこちらを見る。「ほんとうですか」と尋ねる声に対し、わたしはこくりと頷いてから「だけどね」と言葉をつけ足す。
 リヴァイ先生とプライベートで会っていたことは、言わなければならないと思った。2人だけでも会ったし、自宅に行ったこともある。そこに男女の関係はなく、本当に上司と部下、同じ分野の研究をする者同士の関係だった。ミカサは、もしかしたら街中でわたしたちのことを見かけたのかもしれない。
 ただ、ずるいかもしれないけど、リヴァイ先生をすきだったことは言わないことにした。こればかりは、どうしても言えなかった。
 ひととおり話終えるまで、エレンはじっと黙って、少し下を向いて耳を傾けているようだった。最後にわたしは「ごめんなさい」と頭を下げる。

「リヴァイ先生といるのはとても勉強になったし、楽しかった。仕事以外で彼と一緒にいたことをエレンに言えなかったのは、全部わたしの気持ちのせいで、わたしが悪い。」

 何を言われても構わないと、静かに覚悟していた。エレンはどう思うのか、考えたくはなかったけれどひっそりとシュミレーションした。笑って済まされはしないだろうということは確かだった。わたしはどんなことを言われても、受け入れるしかないと考えていた。

「…ナマエさんて、いつもそうだ」
「え、」
「そうやって原因はいつも自分にあるって言うから、俺は何も言えなくなるんです」

 予想外のことばに、わたしは息を呑む。エレンの黄金色の瞳がじっとわたしを捉えている。それが少しばかり苦しげに歪んでいるから、彼の瞳に映るわたしの姿は、ひどくいびつだった。部屋の秒針の音が、わたしの平衡感覚を崩していく。
 そうだ、御託を並べるのは簡単で、楽だった。それは最大の防御だった。わたしは、誰かに傷つけられないように、わたしを傷つけていた。そうすれば、わたしは自分を、自分のなかにある感情を、守ることができた。


「…ナマエさん、泣かないでください」


 エレンの腕が机の向こう側から伸びてきて、わたしの頬を拭う。べしゃりとした不快な感覚が頬全体に伝わり、エレンがごしごしと擦るものだから、その摩擦でじんと痛くなる。
 彼のまっすぐな瞳が、こころが、わたしに触れる手が、わたしを傷つける。でも、それは決して嫌なことではなかった。むしろ心地がいい。エレンのつけた見えない傷から、わたしの身体は毒に侵されていく。
 何を恐れているのかと問うた、リヴァイ先生の声が頭のなかでリフレインする。記憶は消せない。日々を過ごすなかでいろいろな体験や感情が積み重なって、少しずつセピア色に薄れていく。彼への恋心もそうだったはずだ。けれど、ぶり返してしまった、初めて味わった甘くてにがい記憶を、薄めたくなかったのかもしれない。

「やっと、ナマエさんの真んなかに触った気がする。」

 エレンが微笑む。とても穏やかな肖像画のようだった。
 わたしの止まらない涙は頬を滑り、だらしなく口元にとどまる。それはとても塩辛くて苦かった。

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