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 僕の毎日は、午前中は家事の手伝いやお使い、午後はエレンやミカサと会うというもので、その繰り返しの日々だった。その毎日に不満を持ったことはあまりない。自分の身の丈にあったものだと思っていたから。僕らはいずれ外の世界に行くべきだという漠然とした思いはあったが、まだ現実味のない夢だった。

 ある日、いつものようにエレンとミカサと本を読んで家に帰る途中、細い路地の中でしゃがみこんでいる女の子に出会った。後姿を見たところ、おそらく僕と同じくらいの年齢だと思った。

「何をしているの?」

 深く考えずに声をかけると、彼女は大きく肩を震わせて、おそるおそるこちらを振り向いた。すると、真っ先に目に飛び込んできたのは彼女の赤く腫れた左頬で、僕は慌てて彼女に駆け寄った。

「そのほっぺ、どうしたの?とても痛そうだ。」

 彼女は小さな手で左頬を隠し、それから長い髪で顔を隠して「なんでもないの」と言った。からからに掠れた、とても小さな声は、ちょっとした物音でかき消されてしまいそうだった。

「僕のうち、すぐ近くだから手当しよう。冷やしたほうがいいよ。」

 そう言って彼女を立たせようとしたが、体を強張らせて決して動こうとしなかった。握った手は小刻みに震えていて、驚くくらい冷え切っていた。彼女は首を横に振り、「なんでもない」と繰り返すが、どう見ても何でもない訳がなかった。しかし、岩のように彼女は頑として動こうとはしなかった。声をかけてしまった手前このまま放っておく訳にはいかず「じゃあ、少しだけ待ってて。」と言って、僕だけ一旦家に戻ることにした。「これ、預かっていて」と抱えていた本を地面に置くと、彼女は口を閉ざしたままそれを一瞥した。


 急いで家に戻り、水で濡らしたタオルを持って戻ると、彼女と本は同じ場所にいた。見る限り、微動だにしていないようだった。体力のない僕はたった少しの距離を走っただけでも苦しくなってしまう。ぜえぜえと息を切らしながら彼女に濡れたタオルを差し出したけれど、受け取ってくれる気配はなかった。ちっとも動こうとしない彼女に対して僕も躍起になり、彼女の赤く腫れた頬にタオルを押しつけたところ、また彼女の肩が揺れた。

「ちゃんと冷やして。じゃないと痛みも腫れもひかないから。」

 彼女の冷たい手を取って、タオルの上に押しつけた。相変わらず何も言わなかったが、とうとう折れたのか手を地面に下ろすことはなかった。僕がほっとして彼女を見つめると、「君の手、熱いのね」と彼女は言った。僕は急に恥ずかしくなって、「走ってきたからじゃないかな」と誤魔化したけれど、耳の端まで熱くなるのがわかった。
 僕らはしばらく、言葉を交わさずそこにしゃがみこんでいた。彼女をよくよく観察してみると、洋服のところどころが砂で汚れているけれど、このあたりでは珍しいくらいに小綺麗な恰好をしていた。仕立てのよさそうなブラウスにモスグリーンのワンピースを着ていて、胸元には金色のブローチがきらりと光っていた。足元の茶色い靴はおそらく牛革のものだろう。腰くらいまである長い髪は綺麗な栗色をしていて、絹の糸のようだ。肌の色は透き通るように白くて、だからこそ腫れあがった頬が痛々しく見えた。

「ねぇ、この本は何が書いてあるの?」

 彼女の観察に気を取られていたので、急に話しかけられて変な声を出してしまった。その声がおかしかったのか、小さく笑う彼女の姿をみて、僕はほっとした。 

「やっと笑ってくれたね。」
「ごめんなさい、気を悪くした?」
「ううん、そんなことはないよ。ただ、ずっと険しい表情だったから。」

 そう言うと、また彼女の顔が曇ったので僕は慌てて「この本のことだよね?」と話題を変えた。

「これは、壁の外の世界が書かれた本なんだ!」

 僕は少しばかり自慢げに、中身を見せながら彼女に説明した。最初は暗い顔をしていた彼女が、だんだんと明るい表情になって、小さな声で「すごい」とか「ほんとう?」と話す姿を見て、とても嬉しくなった。エレンとミカサ以外に、こんなに僕の話を聞いてくれた子どもは初めてだった。僕は夢中で本について話して、彼女はその話を聞いてくれた。


 しばらくの間そうしていると、時間を知らせる鐘の音が鳴った。さっきまで青色だった空は薄い赤色に染まり、巣へ帰っていく鳥の声が街に響いていた。「大変だ、もう帰らないと」と僕が言うと、思い違いじゃなければ彼女は少しだけ寂しそうな顔をした。

「僕はアルミン・アルレルト。君の名前は?」
「…わたしは、ナマエ。」
「ナマエ、よかったら明日も、同じ時間にここで話そう。この本、まだまだ面白いことがたくさん書いてるんだ。」

 僕がそう言うと、ナマエはにこっと笑って頷いた。その満面の笑みに、僕はまた顔が熱くなるのを感じた。その笑顔があまりにも美しくて、綺麗だったから。

「タオルありがとう。きちんと洗って返すから。」
「いいよ、そのまま返してくれて。」
「ううん、きちんと洗う。」
「…わかった。ほっぺ、少し落ち着いたね。よかった。」

 僕らはまた、明日会う約束をしてそれぞれの家に帰った。 


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テーマ「人外ファンタジー」
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