「県大会の必勝祈願だ」と、近所の神社に寄り道してから家に帰ると玄関の鍵が開いていて、そういえばあいつが来るって言っていたことを思い出した。普段だったら、玄関の扉が開く音を待ち構えていたように反応して飛び出してくるのに、今日は出てこない。ちょっと身構えてしまった自分がばかばかしくなって靴を脱ぎ捨てた。 「なまえ」 茶の間でだらんと横になるなまえはまた勝手に俺のTシャツと短パンに着替えていて、座布団を枕にしてすやすやと寝ているようだ。彼女の制服は部屋のすみっこにきっちり畳まれて、静かに座っている。 なまえが着ているTシャツは、なぜか彼女が気に入っているものだ。洗っておいてよかった。これがタンスに入っていないと、なまえは不機嫌になる。どのTシャツも俺にとっては同じような着心地だけど、なまえは「これはちょうどいい感じに使い込まれてて着心地がいい」と言う。わからないと言ったら「ハルがおんなじような水着を買うのと一緒」と言われた。 台所に行って、冷蔵庫から麦茶を取り出す。グラスの半分くらいまで注いで一気に飲み干すと、ひんやり冷たい感覚が体のなかを通り抜けていった。コンロには鍋がひとつ置いてあって、蓋を開けると味噌の香りがふわっと漂う。中はまだ温かくて、作ったばかりだということがわかる。両親が家を空けてからというもの、なまえは自分の部活がない日、頼んでもいないのに夕食を作ってくれる。 茶の間に戻ると、開け放たれている縁側から夏の夕暮れの風が入ってきて、寝ているなまえの前髪をすこしだけ揺らす。それからなまえが商店街のくじ引きで当てた風鈴の音と蝉の声。遠くにいるトンビの声もする。 なまえは起きそうにないし、起こすのも面倒だからしばらくこのままにしておこうと決めて胡坐をかく。さっき引いたおみくじをポケットのなかから取り出して、もう一度目を通した。「自分がいいと思ったおみくじは持ち帰っていいんだよ」と真琴が言っていて、何か悪くないかもしれないと思ったので、何となく持って帰ってみた。 「…待ち人来たる、か。」 「待ち人ってだれ?」 はっとしてなまえの方を見ると、まだ目はつむったままだ。 「起きてたのか」 「起きてません」 「…起きてるだろ」 「お姫さまは王子さまのキスで目を覚ますんだよ」 「一生寝てろ」 「…ひどい!」 ぱちっと目を開けたなまえは、寝ころんだまま「待ち人ってだれよぉ。教えなさいよぉ」と言いながら、小さなこどもが駄々をこねるように手足をばたばたさせる。めんどくさいけど、嫌そうな顔をすればなまえの思うツボだ。こいつは、俺がめんどくさいと思うことをやってはニヤニヤするめんどくさいやつだ。「いつから起きてたんだ」と尋ねると「ないしょ」と返される。 「おみくじ」 「うん?」 「引いてきた」 「へぇ。どれどれ…半吉?」 「うん」 「半吉なんてあるんだ。初めて見た」 なまえは項目ごとにつらつらと内容を読み上げる。漢字が読めないのか古い仮名遣いが読めないのか、しどろもどろになるところが多い。顔がしかめっ面になっている。確かに、こいつの古典をはじめとする国語の成績は最悪だ。 「部活のみんなと行ったの?」 「うん」 「待ち人って誰?」 「……」 「都合が悪くなると、ハルはすぐ黙るんだから。」 おみくじを元通りの長方形にたたみなおすと、なまえはそれを俺の手に握らせた。手が重なって、そこからじんわりと体温を感じる。重ねられたなまえの手は小さくて、すこしだけ驚いた。こいつの手、こんなに小さかっただろうか。 「わたしはハルが水泳をまた始めてくれて、世界でいちばん嬉しかったんだよ。」 「大げさだ。」 「そんなことない。新しい仲間も増えて、わたしはハルが楽しそうで嬉しい。」 なまえは目を細めて微笑んだ。とてもやさしい表情だと思う。少しだけ上がった口角のさきにある頬が、とても柔らかそうで心地よさそうで、思わず手を伸ばした。なまえの笑顔が消えて、どもりながら「どうしたの」と尋ねてくると急にばつが悪くなって手を離す。なまえの目が、ふと寂しくなったように見えたのは、俺の都合のいい想像なんだろう。 「…きょ、今日はサバカツです!」 「サバカツ?」 「ほら、大会前だしやっぱりカツ食べとかなきゃでしょ。」 何も変わっていないようなつもりで過ごしてきたけど、そんなわけがなかった。小さいときは当たり前のように手をつないだり、くっついて昼寝したりしたけれど、それがはばかられるようになったのはつい最近のことではなかった。なまえは冗談だったらそういうことしてくるくせに、ちょっと真面目な雰囲気になると、とたんにさっきみたいな表情をする。 なまえと一緒にいることに、何か意味を持たなければいけないような気がしている。それがどういうことなのか俺はわかっているけど、向き合えない。それがとても苦しくて、水の中にいるときのように自由になれればいいのにとぼんやり思った。 140428:加筆修正 |