橘真琴という男は、大変いけ好かない男だ。そう感じているのはこの高校のなかでおそらくわたしだけだろうと思う。たいていの生徒に聞いて回ったとしたら、みんな口をそろえて橘真琴の好青年っぷりを語るのだろうけれど、わたしはいけ好かない男だと思って奥歯をぎりぎりさせてしまう。


 橘真琴という男は、身長が高く、肩幅のある男性らしい体つきのわりには、優しげな声と顔立ちをしている。少し色素がうすい栗色の髪の毛は、身長が高く頭が抜きんでているせいかとても目立つ。
 橘真琴の噂は、入学後すぐ流れた。身長の高さから目立つことに加えて、容姿の端麗さが女子の注目の的となり、おとなしく高校生活を過ごそうと、静かに地味に過ごしていた隣のクラスのわたしにまで噂は聞こえてきた。
 確かに、橘真琴は目立った。廊下を歩いていて、やたらでかい人がいるなと思ったら橘真琴だったし、運動が得意なのか体育の授業で活躍するたびにクラスの女子たちはざわめいていた。わたしには関係ないなと思いながら、煩わしいそのざわめきを右から左に流していた。


 それが関係なくなってしまったのは、学校生活にもずいぶんなれたころ、後期の美化委員になってしまってからである。「校内の美化を推進し、保つ」という、モットーだけは美しいけれど人気のない委員に「部活に入らないから」という理由で何となく立候補したら、なんと橘真琴も美化委員になっていたのだ。1年生の美化委員はクラスから1名のみなので、必然的に他のクラスの委員との関わりが多くなった。しかし、このころのわたしは、まだ橘真琴がいけ好かないと思ってはいなかった。
 けれど、一緒に委員会活動をしていくなかで、自分のこと以上に他人のことを見ている彼に対して、いけ好かなさを感じることが多くなった。美化委員の仕事のひとつに、校内の掲示物の掲示や撤去、整理の仕事があるのだけれど、わたしが高いところにある画鋲を取れずに悪戦苦闘していると、橘真琴はどこからともなく現れ、難なくそれを取ってみせた。がっちりした腕にはまだ掲示が済んでいないポスターの筒が何本も抱えられていて、それなのに「大丈夫?手伝うよ」なんて言ってくる橘真琴にわたしは苦虫をかみつぶしたような気分になった。わたしは決して愛想のいい人間ではないが礼儀はきちんとしなければと思い、「ありがとう」と小さくお礼を言った。本当は全然ありがたくなんて思っていなくて、その日はずっと胸の奥が重くてしんどかった。


 橘真琴は、そうやって自分のことより他人のことを優先させる。わたしにはそのやさしさが時に理解できなかった。自分に余裕がないはずなのに、どうしてそうやって人にやさしくするんだろう。人にやさしくしないと死んでしまう呪いでもかけられているのではないかと毒づきたくなる。自分に対する見返りでも求めているのかと思ったこともあったけれど、そういった様子は見られない。橘真琴を見ているとイライラしたり胸が苦しくなってつらいのに、何でか目についてしまう。それもこれも橘真琴が目立つせいだと思う。わたしが彼に対して、冷たい態度を取っていることは自分でもわかっていた。でもどうしようもできないし、それもこれも全部橘真琴のせいなのだ。




 2年生になって橘真琴と同じクラスになってしまい、2回目の席替えで隣同士になったときは本当に最悪だと思った。橘真琴は隣同士になったとき、呑気に「みょうじさん、よろしくね」なんて言ってのけ、笑えもしなかったわたしはかろうじて「うん」とだけ返し、胸の中で風船をふくらませたようにぎゅうぎゅうで苦しい状態に陥った。
 席が隣同士になると、月に1度回ってくる日直当番を一緒にしなければならない。わたしはその日がこわくてこわくて、1週間くらい前から、神さまが気を効かせてわたしに風邪や腹痛といった体調不良を与えてくれないかとひそかに願っていたが、そんな都合のいいときに神さまを信じる愚かな人間にに加護など与えられず、気分が悪い以外は健康そのものだった。
 当日の朝、ベッドからなかなか起き上がれずにいると、お母さんが大声でわたしを呼んだ。「いいかげん起きないと遅刻するわよ」と。仮病を使うことも考えたが、高校入学時に決めたわたしの目標は「3年間皆勤賞」だ。橘真琴のせいでその目標をぶち壊すわけにはいかず、意を決して学校に行くことにした。


 今日も橘真琴はいけ好かなかった。わたしより早くに登校して職員室へ学級日誌を取りに行っていたり、授業後の黒板を消しているとわたしには届かない高いところを消したりする。極めつけは、こんな日に限って日直の雑務を多く頼まれ、プリントやノートを職員室に運ぼうとすると、わたしには3分の1しか持たせず、残りの3分の2の量を橘真琴が持っていこうとしたことだ。はじめは「重いから全部俺が持っていくよ」なんて言って、クラス全員のノートをひとりで運ぼうとしたが、わたしはそれにイライラして「そんなことしたらわたしの仕事がなくなるんだけど」と言った。すると、橘真琴は「あ、そうだよね。ごめんね。」と困ったように笑った。そんなふうに、橘真琴がわたしに対して気を遣ったり手伝う姿を見るたび胸の奥が重くなっていき、きりきりと痛んできた。


 最悪の1日をなんとか終え、やっと放課後になった。長い長い1日だった。あとは学級日誌を書いて、担任に出せば終わり。この修行のように長い苦行から解放されると思うと、ずっと苦しかった胸のなかも少しだけ軽くなった。橘真琴は、後ろの席の七瀬くんに「日直の仕事が終わったら部活に行くから」と伝えていた。


「…部活なら行ってもいいよ。」

 わたしがそう言うと、橘真琴は「えっ」と目をまん丸くする。きれいなみどり色の瞳。
わたしは思わず目をそらしてしまう。

「日誌を書くくらいだから、わたしひとりでも…」
「ううん、俺の仕事でもあるし、一緒にやるよ。」

 橘真琴がきらっきらした笑顔でそう言うものだから、わたしは身を固めて押し黙ってしまった。「だからハル、先に行ってて」と言われた七瀬くんは、わたしをじっと一瞥して教室を出ていった。


 あっという間に教室の中がわたしと橘真琴の2人だけになり、橘真琴はわたしの前の席に移動する。椅子だけ後ろに向けて、わたしと橘真琴はむかい合うかたちになった。何ということだ。最後の最後に、最大の難関が待ち構えていた。わたしがそんなに日頃悪い行いをしているのだろうかと思うくらいの難関だ。何が嬉しくて、橘真琴とむかい合って日誌なんて書かなきゃならないのだ。わたしは深く息を吸い込み、無言でシャーペンを日誌に走らせる。その様子を橘真琴はじっと見ている。見ているだけならさっさと部活に行けばいいのにと思いながら、懸命に手を動かす。早く、この苦しい空間から逃れたい。


「みょうじさんは部活入ってないの?」
「…うん。」
「そっか。」


 胸のなかだけじゃなくて、頭のなかがよくわからないものでいっぱいになる。黒いもやみたいな、ガスみたいなものがもあもあと広がっていって、日誌に書かなければならないことが、そのよくわからないもので隠れていく。あの風船はまだまだ膨らんでいく。もう膨らむ隙間なんてないのに。


「…みょうじさんの字、きれいだね。」

 ポキッ、と小さな音を立てて、シャーペンの芯が折れた。「あっ」という橘真琴の声を合図にしたかのように、わたしはシャーペンを机に叩きつけて立ち上がる。椅子の足が床をこする鈍い音がして、それが引き金になって胸の中の風船が割れた。しゅるるる、と胸の中の苦しさが抜けていき、わたしは決して口に出すまいと思っていた言葉を吐き出すことにした。



「わたし、橘くんのことがいけ好かないの。」



 口にした途端、息ができなくなりそうで、目のなかにわけのわからないものがたまり始めたのは、ただただ苦しいせいだと思う。滲んでいく視界のなかで、橘真琴は驚いていた。それがだんだんと穏やかな表情になり、「どうして?」などとやさしい声で尋ねてくるものだから、わたしはもう耐えきれなくなってしまった。


「な、なんでそんなに人にやさしくできるの?ずっと思ってた。美化委員のときとか、自分の仕事終わってないのにわたしのこと手伝ったりして、そういう橘くんの行動がすごく目について、意味わかんなくて、なんか橘くん目立つし、目に入って誰かにわたしと同じようなことしてるとイライラして、みんな橘くんを頼るじゃん。そんなことしたら橘くんが大変になるだけなのに、いっつもへらへらしてて、今日だって…」


 そこまで言うと目から変な液体がぼたぼたあふれ出して、頬を滑り落ちて首元を濡らした。涙なんて、本当に訳がわからない。自分の言っていることも、なんでこんなもの目から流しているのかということも、訳がわからない。カーディガンの裾で目元を拭おうとすると、目の前に淡いみどり色のタオルを差し出された。


「使ってないから、これで拭いて」

 橘真琴はそういって私の手にタオルを握らせる。

「またそうやってやさしくする…」
「みょうじさんには優しくしたくなるんだよ。」
「意味わかんない。」


 ばふっとタオルで顔を覆うと、ふわふわした感覚に包まれて、ほのかに甘い香りがした。吸水性抜群のタオルはわたしの涙をぐんぐん吸い込んでくれる。


「俺がいけ好かないっていうのはよくわかったよ。」
「…うん。」
「みょうじさん、心配してくれてありがとう。」
「な、なにをどう解釈したらそう理解できるの?」
「説明が必要?」
「わたしは、とにかく橘くんのことが、」


 いけ好かないんだと言おうとしたそのとき、頭の上に暖かい重みがのしかかってきた。それが頭を2、3度やわらかく撫でて、頭を包み込むようにして止まった。もうわたしにこの意味不明な状況を処理できるほどのキャパシティは残っていない。だけど、不思議と苦しくて重い気持ちが溶かされていくような気がする。そのことだって意味がわからないのだけど、不快ではなかった。



「みょうじさんが思うほど、俺はいい人でもないし、優しくする人だって選ぶよ。」




140428:加筆修正



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