※コミックス29巻〜30巻付近ネタバレ注意








 御堂筋との勝負に負けた。走りなれたホームコース。賭けたものは自分がいちばん誇りに思って背負っているスプリンターの称号。更に早くなるために、タイヤを変えてマシンを強化させたばかりだった。負けられなかった。
 だからあのときの勝負で余計なものはすべて捨てたし、鼻血が出ようが足が痙攣して千切れそうになろうが、そんなことはどうでもよかった。
 勝利か敗北か、その2択しかない。ならば勝利を掴み取るしかない。
 わかっていたけれど、及ばなかった。







 章吉は、昨日のレースの疲れと喪失感が残って、布団から起き上がることができなかった。
 昨日は、どうやって素泊まりしている祖母の家に帰ってきたのか、それからどうしたのかもよく覚えていない。
 くたくただった。身体のあちこちが軋むように痛かったし、背中に何か憑りついているんじゃないかと思うくらい重かった。一番酷使したであろう二本の脚は、歩いている感覚がわからなくなるほど麻痺していた。

「ええかげん起き、章ちゃん!新幹線の時間あんねやろ!」

 ――わかっとるわ。
 そんな声も出ず、顔だけ動かして枕元の時計を見る。新幹線の時間まであと2時間。今から準備すれば十分間に合う。
 息を深く吸い込んでから、ゆっくり体を起こす。先程見た時刻にしては、部屋は薄暗かった。それは寝室になっている座敷のカーテンが閉められたままであるからで、遠慮のない祖母なりに気をつかってくれていたことがわかった。
 カーテンを開けると、広がるのは正午も近い大阪の空。遠くまで澄み切って、太陽がさんさんとさしている。ぼんやりする頭でそれを見つめていると、昨日の勝負のことが頭をよぎった。
 レースに負けた直後、ピントの合わない目で見上げた空は呆れるほどに青くて、雲ひとつ浮かんでいなかった。それがだんだんと滲んできて、気づいたときには熱い熱い雫が顔にこぼれていた。何も隠してはくれない空の下で、章吉は自分が負けたという事実とともに、自分の弱さと失ったものに直面するしかなかった。
 寝起きでセットもしていない頭をがしがしと掻いてから、千葉へ帰る準備を始める。
 手始めに洗面所に行って、冷たい水で顔を洗う。靄のかかった頭のなかが、少しすっきりと晴れた。
 柔軟剤の香りがするタオルで顔を拭っていると、台所にいる祖母が、ずいぶん大きな声で章吉を呼んだ。
「章ちゃん、なまえちゃん来たで」
 なまえちゃん。その名前に、歯ブラシを咥えようとした章吉の手が止まる。
 「顔見せやー」というボリュームのある祖母の声あとに、「忙しいならええんやで」と遠慮しているなまえの声が聞こえる。
 章吉は「歯ァ磨いたら行く!」と大声で返事をし、慌てて歯を磨きだす。
 ふと、左右が反転した自分の姿が目に入る。あんまりにもひどい顔だ。眉間には弱弱しい皺が寄っていて、いつもの勝気な表情はどこに消えたのか。十分眠ったはずなのに、顔色もよくないし、目つきもきつい。
「…辛気くさ」
 自嘲してみせると、鏡のなかの自分もくつりと笑っていた。





「なまえちゃん、待たせてごめんな!」
 章吉が茶の間に戻ると、なまえは祖母が入れたであろうお茶を飲みながらのんびりテレビを見ていた。
「ええねん。こっちこそごめんな、帰る日に来てしまって。」
 なまえのソプラノが、心地よく耳に響く。京都育ちの彼女の訛りは、大阪育ちの章吉のものとは少し異なっている。
 京都、というキーワードが昨日の御堂筋を彷彿とさせ、章吉の表情は思わずこわばりそうになった。けれど、目の前のなまえはなんら関係がないのだと笑顔を保つ。
 なまえは章吉の父親の姉の子ども、つまりはいとこにあたる女性である。今年の春に大学を卒業して就職したばかりで、章吉とは6歳ほど年齢が離れている。
 なまえは、大学生のころから大阪でひとり暮らしをしていたので、電車で行ける距離に住んでいる章吉一家とは顔を合わせることが多かった。
 それに、なまえはよく章吉が出場するレースにも時間を割いて応援に来てくれた。あのころは負けてばっかりだったから、彼としては見に来てほしくはなかったのが、口の軽い母がどれだけ内緒にしろと言ってもなまえに情報を漏らしてしまっていたのだ。
 レースに負けて落ち込む章吉が、雑踏に紛れていても、いつだってなまえは彼の姿を見つけることができた。悔しいのか悲しいのかよくわからない表情をした章吉に対し、なまえは穏やかな笑顔を浮かべていた。
「この間よりずっと早よなってるやん。いっぱい練習したんやなあ」
 なまえは、章吉を他の選手と比べることはなかった。それが彼女のやさしさだとわかっていても、試合に勝てない自分は格好悪いと思っていた章吉としては素直に受け止めることができなかった。
 けれど、だんだん自分のレーススタイルが確立されてきて、レースで上位に食い込めるようになってきた。
 初めて優勝したレースになまえはもちろん来ていて、表彰台からいつも以上の笑顔で拍手を送ってくれている姿が見えた。
 章吉には、昼間だというのに、そこだけスポットライトがともったように明るく見えた。
 なまえは、章吉が今回大阪に帰っていることも、彼の母から聞いたと話した。「何で連絡してくれへんかったのー」と間延びした声でなまえは言う。章吉は「なまえちゃん、仕事で忙しいんやないかと思ってん」と大げさに笑って見せた。
 自分からなまえに連絡をしなかったのはあえてであって、本音は別にあった。
「なんや、高校生になって人並みに気ィ使えるようになったん?」
「そらそうやで。って、前からワイは気遣いできとったやろ」
「んー、そうかあ?ワイがワイがって自己主張強かったと思うけど」
「嘘やー」
 懐かしいなまえの笑顔に、すさんでいた章吉のこころは少しばかり穏やかになった。
 そのまま座りこんでなまえに話したいことがたくさんあったが、祖母の「はよ用意せえ、乗り遅れるで」という言葉に尻を叩かれ、章吉は急いで準備を始める。すでに、起床してから30分ほど経過している。章吉は、千葉に帰る前にもう少しなまえと話しておきたかった。その時間を延ばすためには、さっさと帰り支度を済ませてしまうしかない。
 慌てる章吉に対し、なまえは「章ちゃん、うちが駅まで車で送ったるから安心せえ」と声をかける。
「なまえちゃん、車買うたん?」
 章吉がそう尋ねると、なまえはにやりと車のキーを見せた。





 なまえがボーナスで買ったという軽自動車は鮮やかな赤色だった。章吉は赤は「カッコイイ色」だと思っているが、丸みのあるフォルムの自動車は、カッコイイというよりは可愛らしかった。なまえは、章吉の愛車であるロードバイクを思い出してこの色に決めたのだと話した。
「章吉くん、いっつも赤色がええ、カッコエエって言うてたやん。車の色に迷ったとき、何となくそのこと思い出してな。」
 そのことが嬉しくて、章吉の口からは「まるでワイを乗せるために買うてくれた車やな」と調子のいい言葉が出てしまう。なまえは「せやなー」とその言葉を流しながらも、「いつか章ちゃん乗せられたらええとは思っとったよ」と笑った。
「仕事慣れた?」
「うーん。微妙。」
「大変やんな」
「せやな。」
「でも、章ちゃんと会えてうれしいわ。元気出た。」
 なまえとしては何でもない台詞なのだろうけど、章吉のこころはどきりと跳ねる。そう言われてうれしくないわけがなかった。
 なまえにとって自分は弟のような存在だったとしても、章吉はなまえを姉のような存在と思わなくなったのはいつ頃だったか。たぶん、レースに負けてみっともないところを見せたくないと思い始めたころからだったのだろう。
「インターハイ、章ちゃんのチームが優勝したんやってな」
 なまえのその言葉を皮切りに、章吉は高校入学後の部活であった出来事を捲し立てるように話した。
 インターハイでチームで走ることの楽しさや安心感を知ったこと、その中でのスプリント勝負がとても熱戦だったこと、山を登るスプリントスタイルを身に着けたこと、自分は途中でリタイヤしてしまったが、同級生の選手がチーム優勝を掴み取ってくれたこと。
 章吉がとても嬉しそうに―リタイヤの場面だけ言いにくそうにしていたが―そのことを話すものだから、なまえも自然と笑顔になる。
 章吉が千葉に越してからというもの、今までのように頻繁にレースを見に行けるわけでもなく、大した連絡も取り合わなかったものだから、どうしているのだろうかと思っていた。しかし、章吉本人からその話を聞くことができて、なまえは安心した。とてもいいチームに、仲間に出会えたのだと思って。
 目の前の信号が赤色に点灯したため、なまえはゆっくりとブレーキを踏む。そのとき、今までとは異なった雰囲気で、章吉が口を開いた。
「なまえちゃん、あのな」
 うん、と返事をするなまえの声も、どことなく緊張感が漂っている。
「ワイ、スプリンターやめることになってん」
「……そうなんか」
 しばらくの間は、なまえの動揺の現れだった。なまえは自転車競技に精通しているわけではないけれど、章吉がスプリンターに強いこだわりを抱いていることは知っていたし、先程まで嬉々としてインターハイでのスプリンターとしての活躍を話していたのに、どうして。
 ちらりと盗み見た章吉は窓の外を見つめていて、その表情はうかがい知れなかった。章吉にとってもなまえにとっても見慣れた大阪の景色。
 けれど、なまえの瞳には、たった半年で大きく成長した章吉の姿が映っている。
 なまえは、章吉はいつまでも年下のかわいい弟のような存在だと思っていた。彼がレースで負けて落ち込む姿も、次のレースこそは勝とうと努力する姿も、大阪にいた頃はずっと見てきた。
 けれど、半年ぶりに見た章吉は、身長も伸びていたし、体格も明らかに中学生のころとは変化している。加えて、彼が何よりも力を注いでいるロードレースで輝かしい成績を残して、たった半年ほど会わなかっただけで、こんなにも逞しく成長しているなんて。
 信号が、青色に変わる。車窓の景色が、ゆっくりとスピードを上げて流れ出す。
「自分で決めたんやな」
 なまえにそう問いかけられて、章吉はすぐに頷くことができなかった。
 自分を見直すために大阪に帰ってきた。スプリンターを続けるかやめるのか決めるために。港のコースで走った感触は悪くなく、自分のスプリンターとしての才能を再確認することができた。
 けれど、最後のレースで御堂筋に負けた。スプリンターをやめることになったのは、自分の本位ではなかった。男に二言はない。それは自らの決意であり、向き合わなければならない事実だ。わかっている。
 しかし、自分の誇りは、称号は、憧れは、途端に帰る場所を失ってしまった。
 レースでスプリンターの称号を賭けて負けたとは言えなかった。そういえば、なまえがどんな顔をするのか、どんなことを言われるのか、想像するだけで目の前が真っ暗になった。





 新大阪駅に着き、なまえは駅前の駐車場に車を入れた。章吉はロータリーで降ろしてくれればいいと言ったが、なまえは「改札まで見送る」ときかなかった。
 3連休最後の新幹線改札付近は人でごった返していた。関西弁の雑踏が、章吉の耳を掠める。あと3時間もすれば、東京駅に足を付いていることだろう。この独特の訛りも、途端に懐かしくなるに違いない。
 章吉が、部活のメンバーにお土産を買わなければならないと言うので、なまえもそれに付き合った。
「悩んだことあったら、いつでも連絡してくれてええんやで」
「…なまえちゃん」
「わたしでどれだけ力になれるかはわからへんけど、話くらいは聞けるから」
 そう言って、なまえは手にしていた紙袋を差し出す。
「お弁当作ってきた。帰りの新幹線で食べ。」
 章吉が紙袋を覗くと、大きめのおにぎりがふたつと、その下にタッパーが入っているようだった。
「章ちゃんがすきなもん詰めたから。おにぎりはツナマヨやし、卵焼きも鶏のから揚げもポテトサラダも入っとる。」
 そう言うなまえの表情は硬く、ともすれば泣き出しそうにも見えた。章吉には、なぜなまえがそんな表情をしているのか不思議に思って尋ねてみたくなったけれど、ぐっとこらえた。ついさっきまでの車内でのやりとりを思い起こすと、なまえにいらぬ心配をかけてしまったのかもしれない。
「なまえちゃん、おおきに」
「ううん。」
「ワイ、もう走るしかないんや。」
「うん」
「走って走って走りまくって、もっと強なるから、またレース見に来てや」
 照れ隠しのように最後に笑った章吉を見て、なまえは目を細める。今までだったら、彼のつんつん頭をがしがし撫でまわしてやったけれど、そんなことはできなかった。
 遠い場所で、彼はなまえの知らない間にどんどん成長していく。それはこれからもずっと。
「レース、見に行くから、連絡してな。」
 駅のアナウンスが、東京行きの新幹線が到着することを告げる。はっきりと言葉にせずとも、それが別れの合図だった。
 章吉が「ほなな」と笑って、改札のむこう側へ消えていく。その背中が見えなくなっても、なまえは少しの間その場から動けなかった。



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