※アニメ派の方はネタバレ注意




 山岳は、乗り馴れた自転車で住宅街をゆったりとしたスピードで走る。夏の日差しはうだるような暑さで、延々と流れる汗が、額、頬、首筋と無遠慮になぞっていく。
 この通りは、山岳が家に帰るための最短ルートではなかった。ならば、目的地はどこなのか。それは、角を曲がって狭い十字路をふたつ越えたあたりに見える、古い木造アパートである。
―――見えた。
 目的地のアパートが見える。道路側にあるベランダの木製の柵に、だらりと寄りかかる見慣れた女性。いくつか置かれたプランターのなかで、一際目立つ黄色い向日葵。山岳は、ぱっと笑顔になる。
「なまえさぁん」
 そう呼びかけると、ぼんやりと遠くを見ながら煙草を吸っているであろうなまえは、山岳の方に目を凝らした。彼女は目が悪い。今はメガネをかけていないから、きっと気づくには時間がかかる。
 案の定、少しというには十分な間を置いて、ようやく山岳の姿を認めたなまえは、呼びかけに答えるかのように左手をあげた。
「遊びにきたよ」
 なまえに見えるようにと、ぶんぶん大げさに手を振る山岳に対し、なまえは「あがっておいで」と間延びした声で彼を呼ぶ。真昼の住宅街に、ふたりの声がよく通る。
 彼女が好むハイライトの煙が、薄く天にのぼっていく。



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 なまえは、山岳が頻繁に利用するサイクルショップでアルバイトをしている。年齢は教えてくれないのでわからない。けれど、その外見と煙草を吸っていることから、山岳はおそらく自分の5、6歳上だろうと踏んでいる。
 高校時代に自転車競技をやっていたというなまえは、ロードバイクのことについてとても詳しかったし、整備も手際がよかった。そして、元はクライマーだったというところから、山岳は彼女に興味を持った。
 なまえは不思議な雰囲気を纏っていた。それは、山岳が敬愛する東堂尽八とはまた違うものだったが、本能的に惹かれるという意味では同じだった。
 首がむき出しのショートカットと、元クライマーらしい華奢ながら筋肉のある体つきは、失礼ながら女性らしさの欠片もなかった。仕事場のサイクルショップでは、地味な色のTシャツに動きやすい細身のジーパン、店のロゴが入ったエプロンという洒落っ気もない出で立ちで、休憩時間に吸ったであろうタバコの匂いを微かに漂わせている。
 けれども、細やかに的確な整備をする技術は女性らしい繊細さを感じさせたし、工具や商品を扱う細い指だとか、整備の際、俯きがちになるときに伏せられる睫毛の長さだとか、しゃがんだときに見えるくるぶしだとか、フォーカスされるパーツは女性のものだった。
 家が近所だと知ったのは、偶然だった。ぐうぜん、普段とは違うルートで帰宅しようとしたとき、今日のようにベランダで煙草を吸っているなまえを見つけた。
 煙草を咥えたなまえは、そこにいるだけでアンニュイな雰囲気を醸し出していた。山岳が、彼女とは違う世界に生きているのではないかと錯覚するくらい、絵になる姿だった。



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 1Kの間取りになっているアパートは、木材がむき出しにった外観通りの古い作りになっていて、キッチンのタイル張りの床も、リビングの畳も、山岳にとってはいつでも新鮮だった。
 さきほどまで黒いタンクトップ1枚だったなまえは、その上に夜の海の色をした薄手のカーディガンを羽織っていた。筋肉質であるものの、華奢ななまえの身体は、服で隠れることによってかなり女性らしくなる。
 エアコンのない室内は、扇風機の風がもの悲しげに吹いている。
「久しぶりだね。今日は部活の帰り?」
 無地のガラスポットに入ったウーロン茶をグラスに注ぎながらなまえは尋ねる。
「ううん、今日は補講。」
「あら、それは大変だったね。」
 なまえが勉強は不得意なのかと尋ねると、山岳は勉強より坂のほうがずっとすきだと答えた。それのふたつは比較対象になるのかと、なまえは苦笑して肩を竦める。
 彼女自身も現役時代クライマーで、自転車競技においては平坦より坂道の方が好きだった。「得意」というより「好き」なのだ。だから、山岳が坂を好む気持ちはわからなくもない。けれど、彼のそれは日常生活に影響を及ぼしているのではないかと心配になる。
 氷をたっぷり入れたウーロン茶は、とてもとても冷たくて火照った身体を中から冷ましていく。「喉渇いた」とごくごくウーロン茶を飲む山岳を見つめながら、なまえは自分の記憶を反芻し、山岳とどれくらいぶりに会ったのかを思い出す。
 週1のペースでなまえの勤務先に来ていた彼が、ぱたっと姿を見せなくなったのはいつごろだったか。最後に来店したのは、インターハイ直前だったはずだ。
 山岳は、インターハイを楽しみにしていた。そして「なまえさん、見に来てね」と彼女を誘った。彼は、「おもしろい登りをする子も出るんだ」とも言っていた。山岳の言う「おもしろい登りをする」彼も気になったが、山岳の登りを見たことがないなまえにとってはそちらに対する期待が大きかった。自転車競技強豪の箱根学園で、史上初めてレギュラーとなった1年生。気にならないはずがない。

 山岳が本領を発揮したのは、インターハイ最終日だった。ラスト、山岳とおもしろい登りをするメガネの男の子が一騎打ちになったとき、なまえはゴール付近で必死に目を凝らした。周りが大声で彼らに声援を送るなか、なまえは声を出すこともできなかった。息が止まっていると思うくらい苦しくて、体がばらばらになりそうなくらい力が入った。
 あの瞬間、闘争心を剥き出しにし、目の前のゴールだけを狙って、体のすべてを使ってペダルを押し続けた山岳の姿。今でもまぶたに焼きついている。

「なまえさん、俺負けちゃった」
 グラスの烏龍茶を飲み干した真波は、胡座をかいた足首に両手をつき、ふっと目を逸らす。
「俺のせいで、先輩たちに優勝あげれなかった」
 自嘲的な彼の笑いは、虚しい音を立ててこの部屋に落ちた。それをかき消す、扇風機のカラカラという音が耳障りだ。それでも、風が汗で湿った肌をゆらすと、幾分か心地がよかった。
 おそらく、山岳は数多くの慰めを受けたのだろうとなまえは思った。
 初出場のインターハイで、ラストの総合優勝争い。僅差で2位に終わったものの、試合内容は十分すぎるくらいだ。あの瞬間の山岳を見ていれば、彼が全身全霊で、出せるだけの力を出したことは明白だった。お前はやりきった、よくやった、また来年がある。きっとそんな言葉をかけられたはずだ。
 その言葉たちは、決して間違いではないし、現実的にその通りだ。山岳はやりきった。本当によくやった。そして、来年のインターハイで優勝を狙える。けれど、やさしい言葉に包まれるたび、彼は行き場のない気持ちを封じこめていたのだろうとも思う。

「見てたよ、山岳くん」
 視線をあげた真波の瞳が、薄暗いブルーのなかでゆらいだ。
「山岳くんのこと、ちゃんと見てた。」
 そのブルーに、なまえは飲み込まれていきそうだった。
「なまえさん、ぎゅってしていいですか」

 ―――なまえさん、インターハイ見に来てね。
 数週間前の山岳は、そう言ってなまえに笑いかけた。あのときの無邪気な笑みは、きっともう見れない。これからのレースは、きっと楽しむだけでは済まされない。
 今は、少しだけ彼の思うままにしようとなまえは思った。
「いいよ」
 首元に巻きついてきた山岳は、うなじの辺りに顔をうずめる。なまえはもしかすると汗くさいかもしれないなぁと思ったが、山岳は何も言わずそのまま体重を委ねてきた。
「すごく苦しいけど、だから生きてるって気がするんだ」
 山岳の声はくぐもっていたが、確かにそう聞こえた。
 なまえは、あの青空の下で確かに見た、光の羽根を思い出す。そして、その元になるであろう場所にそっと触れた。未だ、鮮やかに思い出せる。彼の力強くて命を削るような走りを。
 背中に添えた互いの手が熱い。脈が速い。ふたりとも、それぞれ生きている。

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