03


 ブラウンレザーのソファーにどかりと座ったナマエは、息を吹きかけながらコーヒーを口にする。心地よい苦味がするりと喉を通り過ぎて行き、先程まで感じていた苛立ちは少しばかり鳴りを潜めた。ソファーにもたれかかり、湯気の向こうに霞むエルヴィンを一瞥してからその奥にある窓に視線を向ける。あのときと同じ、暖かくて優しい。  
 ナマエにとって、総じて悪い思い出は穏やかな昼下がりの出来事だった。
 例えば、両親の葬儀。彼女は、幼少期に両親を疫病で亡くしている。自分の最愛の人を亡くしたことは、短い人生に味わったことのない衝撃的な出来事で、悲しくないはずがなかった。葬儀の日は、呆れるくらい青空が広がった、雲ひとつない天気だった。まるで空が、太陽の日差しが、喪服を着たナマエを慰めているようで、彼女は泣くことができなかった。そのことについて、親しくもない親族が「子どもらしくない」と陰口を叩いていることも知っていた。
 「子どもらしくない」ナマエを引き取ってくれる親類は少なく、彼女は親類の家をたらい回され生活していた。やっと居場所が決まったかと思えば、馴染む前に別の場所に移される。そうだ、引っ越しの日も、必ず晴れていた。今度こそはと期待して、裏切られたと勝手に思って湿った心を慰めるように、光はあたたかかった。


 訓練兵団への所属はナマエが自ら決めたことだったが、ここが自分の居場所になるとは思ってもみなかった。新たな知識を吸収して、自分と近い年齢の人々と生活するうちに、ナマエは自分の能力と己がどう生きていくべきかに気がついた。始めは誰かと関わることが苦手だったが、次第に真正面から対等に語り合える仲間を得た。取り立てて、エルヴィンはよく声をかけてきてくれた。思えば、彼はあのころからナマエのことを気にかけていたのだろう。
 調査兵団に入団し、ともに闘ってきた仲間の死を目にするたびに、心は鋭い刃物で抉られるような痛みを感じ、じくじくと苦しかったが、それらが増すほどに体は機敏に動いた。彼らの死は、幼い頃に見た両親の死の感覚とは違った。どれだけ苦しくても、ナマエは「死にたくない」と思った。
 生きるためには何をしなければならないか、彼女は本能的にわかっていた。だからこそ、窮地であればあるこそ、彼女の身体は翼でもあるかのように華麗に空を舞い、何体もの巨人を仕留めた。
 それから、エルヴィンが調査兵団の団長となり、ナマエに分隊長の役割が与えられると、部下という存在ができた。守らなければならない者がいるということは、彼女の人生で初めての経験であった。隊長、隊長と彼女を慕う彼らを見て、感情表現が不得手なナマエは始めこそ戸惑ったが、それを知ってか知らずかぎゃあぎゃあと賑やかな彼らを見ると、自然と笑みがこぼれた。日々一緒に生活をする彼らが、家族のような存在になるのには時間などかからなかった。

――どうして彼は、わたしを切り捨てなかったのだろう。
 技巧部門に入ることは、訓練兵団時代に教官から勧められてはいたが、まさかエルヴィンに言われるとは思ってもいなかった。彼は、物事を分別できる目を持っている。それなのになぜ、右目にハンデを残したわたしをこのまま調査兵団に置いたのだろう。
 コーヒーカップをテーブルに置いて、ナマエは溜息をついた。彼女にとって、調査兵団に居続けることは何より残酷なことだった。自分とともに訓練をこなし、死線を潜り抜けてきた同期の兵士たちが必死に生きて、時に死んでいく。ナマエもその中にいたのだと思うと、時折息が苦しくなる。あの戦線で自分が生きていたこと。その場所に、今自分はいないという現実に直面すること。ナマエにとって調査兵団は居場所で、はじめてできた同期の仲間、部隊の部下は家族のようなものだった。いっそのこと、死んでしまえばいいという考えが頭を霞めるが、それは単なる現実逃避だと自分を戒める。

「よく立体起動装置のメンテナンスを頼まれると聞くが」

 向かいでコーヒーを啜るエルヴィンがそう口にする。ナマエは「ええ」と短く返答した。
 ナマエの部下だった兵士たちは頻繁に顔を見せてくれた。皆、立体起動装置や武器のメンテナンスのついでに雑談をしていくという体だった。その時間は、決して悪いものではなかったが、どうしても自分勝手な罪悪感に襲われてしまう。初めは、彼らが慰めのためにやってきているのではないかと訝しみ、極力冷たく接していたのだが、仕事の合間にあしげくやってくる彼らと接しているうちにナマエの接し方も若干和らいできた。
 彼らは未だにナマエのことを「隊長」と呼ぶ。初めは「わたしはもうあなたたちの隊長じゃない」と呼び名を改めるように言っていたが、上手いことはぐらかされてそのままになっている。彼らとの関係が再構築されているのだと思った。彼らにはもう別の隊長がついているし、一線を引かねばならないと思いつつも、一度知った心地よい関係性に落ち着きたいと波に流されている自分もいた。そして、そのアンビバレンスに揺れて、意識は見えないところに落ちていく気がするのだ。

 ナマエはコーヒーを飲み干して、若干乱暴にコーヒーカップを机に置いた。予想以上の大きな音に驚いたのはエルヴィンだけでなくナマエもで、罰の悪さから「ごちそうさま」という言葉が零れる。まさかそんな言葉を聞けると思っていなかったエルヴィンは、少しの間を置いてから「どういたしまして」と微笑んだ。
 それから自然に、互いの自然が交わったとき、ふたりとも訓練兵時代のノスタルジーを感じていた。
 エルヴィンもナマエも、余暇時間を図書館で過ごすことが多く、よく同じテーブルについて読書や勉学に勤しんでいた。場所が場所なため、会話が盛り上がるということはなかったが、互いに雑談を楽しむ性格ではなかったから、時折交わす短い会話がちょうどよかった。そして、その会話や普段の訓練の様子から、それぞれが相手に対してシンパシーを抱いていた。言葉にして共有したことは当然なかったが、何となくそのことを汲み取っていたから、今までのつかず離れずの関係性が保たれていたのだろう。

「そろそろ戻るわ」

 そう告げたナマエを、エルヴィンは引き留めなかった。彼女はデスクに置かれた書類にサインが入っているかチェックしてから「それじゃあ」と踵を返した。そうしてドアに向かうナマエを、エルヴィンはぼんやりと見つめた。
 短くする必要がないからと長く伸びた髪、筋肉が落ちて華奢になった体、先ほどのがらんどうの瞳や機械仕掛けの声。彼女の生きる時間が逆行しているような錯覚さえ感じる。
 「公に心臓を捧げる」と誓い、調査兵団長に任命されたときは、壁の中にいる数多くの人類のために必要であれば、その誓い通りに自らの部下の心臓を捧げることさえも厭わないと決意した。けれども、たった今部屋を出ていった彼女に意味を与えて囲ってしまうのは、落としきれない感情があるからに違いない。


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