「真琴くん、海克服したんだよね。だったらちょっと付き合ってよ。わたし、海に行きたいの。今から自転車できて。待ち合わせは××商店の前で。じゃあね。」

 一方的にそんなことを言われたかと思えば、口を挟む間もなく電話は切られ、耳元に残ったのは無機質な通信切断を示す音だった。はぁ、とついたため息が、虚しく自室のなかに消えていく。宙に泳がせた視線を机の上に戻すと、眼前に広がるのは小難しい参考書と文字で埋め尽くされたノート。真琴は、それをぱたりと閉じて、彼女の言われた通り自転車で家を出た。昨日、空気を入れたばかりのタイヤは軽快に回る。
 なまえはいつだってそうだ。真琴よりひとつ年上の幼なじみは、そんなことも忘れさせるくらい小さな子どものように奔放だった。


・・・



 待ち合わせ場所に行くと、なまえは店先の塗装が剥がれたベンチに座っていた。彼女は真琴の姿を認めると、加えていたチューブアイスのビニールを噛んでから、むっと眉をひそめた。

「遅いっ」
「ごめんね、これでも急いできたんだけど」

 自転車から降りた真琴の額は、向かい風のせいか前髪がぐしゃぐしゃになっていて、うっすら汗も滲んでいる。それを見たなまえは更に眉をひそめ、みっともない前髪を乱暴に直してやった。

「真琴くん、遅いからアイス半分とけちゃったじゃない」

 なまえの左手に握られたそれを見て、真琴は「それってなまえちゃんが握ってたからじゃないの」と申し訳なさそうに言う。口にしてからしまったと思った。けれど時すでに遅く、なまえは煙がでるくらいかんかんに怒って、そのアイスを真琴に押しつけた。

「あっ、でもまだしゃりしゃりしてる。冷たいよ。」

 チューブアイスを口にした真琴はにこやかにそう告げる。それから「なまえちゃん、ありがとう」とお礼を言うと、当の本人は何にも言わずに空っぽのチューブアイスをゴミ箱に放り投げた。


・・・



 自転車を二人乗りで目的地を目指す最中、なまえはめずらしくはしゃいでいた。後ろで妙に落ち着きがなく、きゃっきゃと騒がしいなまえに対し、真琴は堪らず「なまえちゃん、きちんとつかまってて」と声をかける。すると、「はぁい」と間延びした返事とともに骨盤のあたりに絡みついたなまえの白い腕にぎうっと力が入る。彼女の額が、真琴の肩甲骨の間にふれた。そのこつりとした感覚に、彼は一瞬だけくらりとする。
 空は晴れていたが、西の方に厚い雲がかかっている。真琴は「雨の降らないうちに帰ろうね」と言ったが、返事はなかった。
 海岸沿いの駐輪場に自転車を止めると、なまえは軽やかに自転車から飛び降りて、砂浜の方へと駆け出した。真琴も慌ててその後を追う。少しばかり冷たい海風が、ふたりの顔を撫でた。そして、なまえのスカートをゆるやかに揺らしていく。水色のストライプがきれいなスカート。それはなまえのお気にいりだった。
 やはり、今日のなまえはどこかおかしかった。新緑がようやく見慣れてきた季節。まだ、人肌には冷たい波が押し寄せる砂浜をはしゃいで歩く姿は、どうも不自然で違和感があった。しかし、なまえが何も言わないので、真琴はそのことには触れず、当たり障りのない話をした。
 歩くことのできる砂浜の端まできたころ、先ほどまで遠い西の空にあった厚い雲が、頭上の青空を覆い出していた。あたりがどんよりと暗くなり、遠くで遠雷が聞こえる。

「なまえちゃん、雨が降りそうだよ」
「そうね」
「どこかで雨宿りしないと、風邪ひくよ」
「真琴くんひとりでしてれば。」

 いつの間に拾ったのか、なまえは細い木の枝を握っている。波打ち際ぎりぎりにしゃがみ込み、湿った土にバカだのオタンコナスだの書いている。波が風に押されて、砂浜へ伸びていくと、なまえの書いた文字は海へと飲み込まれていく。
 真琴は、少し離れたなまえの背中越しにそれを見ていたが、壊れたロボットのように消えた文字を書き続けるその姿がいたたまれなくなってしまい、きゅうっと目を細める。それに、雷の音も一歩一歩近づいている。
 砂に沈む歩みを意識しながら、真琴はなまえへと近づいていった。そして彼女の隣にしゃがみ込んで「なまえちゃん」と、極力やさしい声で呼びかける。

「…彼氏にふられた。」
「そうなんだ」
「全部、真琴くんに言ってたからわかってると思うけど」
「うん」
「がんばったのに。一緒の大学行くために、判定もあげたのに。」

 なまえにひとつ年上の恋人がいることを、真琴は知っていた。なまえの恋人に対する惚気も愚痴も、何だって全部聞いてきた。なまえが真琴に話したいと望むことは、全部全部聞いてきた。だから、ふたりがどうやら上手くいっていないことも知っていた。

「ねぇ、真琴くん。わたしのことを慰めてよ」

 この、今にも雨が降り出しそうな曇り空のように、なまえの台詞は苛立ちや性急さをはらんでいた。
 ―――慰めるって、何と言えばいいんだろう。
 迷った真琴は、砂を見つめたまま「なまえちゃんには、もっといい人がいるよ」と口にした。なまえも、真琴と同様に砂を見つめたままでいる。
 しばらくの間があり、なまえは「そうやって、真琴くんの当たり前のようにやさしすぎるところ、嫌い。」と呟いて木の枝を海へ放り投げた。そうして、すくっと立ち上がると、地団駄を踏むようなステップで真琴の前に仁王立ちをする。ぶわりと吹いてきた風が彼女のお気にいりのスカートを巻き上げる。しゃがんでいた真琴の視界には、見てはいけないものが映りそうで、反射的に目をそらした。なまえが真琴を見下ろすその視線は、普段の苛立ちとは違った色に染まっていた。そのとき、乾いた砂浜の色が、ぽつりぽつりと変わり始めた。
 遠慮なく降り出した雨がふたりの頭や肩を叩いていく。真琴はすっと立ち上がり、羽織っていたパーカーをなまえに着せた。そしてフードをかぶせてやってから、彼女の手首をがっしりと掴んで、砂浜の上をひっぱっていく。そのひりひりとした痛みに、なまえは今日はじめて涙を流した。

「雨をよけれるところ探そう」

 フードに覆われた耳に、真琴の声がくぐもって響く。
 真琴はいつだってそうだ。なまえよりひとつ年下の幼なじみは、やさしすぎて物分りのいい大人のように正しかった。なまえにとって、それはとてもつらいことだった。


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