※いじめられるような表現が出てきます。




 みょうじなまえが、同級生の恋人を寝取ったという噂がクラスに流れたのは、彼ら高校生が好んで使うコミュニケーションツールからだった。初めは噂になったふたりが、親しげに放課後の教室で話していたというイニシャルトークだったのだが、いつの間にか彼女の実名だけが公表され、教室で抱き合っていただのキスをしていただの尾びれを付けた噂は、いつしか事実として取り扱われていた。
 その話は、彼女とさして仲良くもないただのクラスメイトの耳にも入っているものだから、厄介だった。ただのクラスメイトには好奇の視線を注ぐものも少なくなく、それがなぜか当事者である女子たちの嫉妬を増大させていた。
 一方、加害者とされているみょうじなまえは沈黙を守り、平静を装っているように見えた。


 みょうじなまえは、そもそもクラスの雰囲気から若干浮いた人物だった。彼女にはおそらく、友人と呼べる同級生はいないのだろう。休み時間はひとりで過ごしていることがほとんどだった。みょうじは、たいてい座席について文庫本を読んでいる。気持ちのいいくらい背筋をまっすぐと伸ばし、視線を本へと向けている。制服を着崩すことなくぴっしりと着ている姿は、派手なアクセサリーをつけたクラスメイトより目を引いた。加えて、彼女は腰ほどまで伸びる艶やかな黒髪の持ち主だった。目が隠れない程度に切り揃えられた前髪の下にある少しばかりつりあがった双眼はいつも気怠さを宿しており、妙に神秘的だった。みょうじなまえは目立たないように見えて、密かにクラスメイトの目を引く生徒だった。




 東堂尽八がみょうじなまえとはち合ったのは、体育祭の全体練習が大詰めに差し掛かっていた頃だった。その日は学年の全体練習が組まれており、3年生の校舎は人ひとりいないはずだった。彼は、うっかり所属している組を示すハチマキを教室のロッカーに忘れてしまい、しんとした校舎をばたばたと駆けていた。誰もいないと思い込んで教室のドアを開けると、窓際から2列目、後ろから3番目の座席で突っ伏しているみょうじを見つけた。東堂は、予想外のことに驚きの声を上げると、みょうじは勢いよく立ち上がり、ドアの前で立ち尽くす彼を見て何歩か後ずさりをした。そのまま煙を撒くかのごとく逃げ出してしまうのではないかと思ったが、みょうじは体を強張らせて動こうとしない。
 真昼の陽ざしを遮るためにカーテンが敷かれた教室は、不自然なくらい薄暗かった。みょうじの顔色は悪く、それは部屋が薄暗いせいなのか、それとも具合でも悪いのか。それに、この教室の重苦しい空気はなんだろう。普段、味わったことのないそれの感覚に、東堂は胃の少し上がずんと重くなるのを感じた。

「びっくりした、みょうじさんじゃないか。誰もいないと高をくくっていたよ。」

 極力おどけた声でそう言って見せたが、彼女が険しい目つきでこちらを見ていることに、どう対応したらよいかわからなかった。

「ハチマキを忘れてしまって、それを取りに来ただけなんだ。すぐ戻るよ。」

 東堂は、意を決して教室に足を踏み入れる。彼のロッカーは、教室の奥に位置しており、どうしたってみょうじの前を通らねばならなかった。あまりじろじろ見るのは悪いだろうと思いながらも、立ちすくんでいる彼女が気になってしまい、ちらりと視線が動く。薄暗い教室を、開け放たれた窓から入り込んできた風がカーテンを揺らして、外の陽ざしが入りこんでくる。その光がみょうじを照らしたとき、東堂の動きがぴたりと止まった。


「…何で、濡れているんだ?」


 東堂のその言葉に、みょうじは居心地悪そうに視線を伏せる。いつも通りぴっしりと着こなされた彼女の制服は、肩のあたりの色がびっしょり濡れて濃くなっていた。彼女の長い髪は入浴後かと見間違うかのごとく、しっとりとしていた。東堂は、ほとんど無意識にみょうじの姿を頭のてっぺんから下へと視線を流した。それがつま先に辿り着くころ、意図せず耳に入って来た噂話を思い出す。それがすぐさま彼女の無残ともいえる姿と結びつき、状況に合点がいった。女子は皆かわいらしいが、衝動的にこういった行動を起こすので残酷だと思う。
 東堂は、ロッカーからハチマキを取り出すことも忘れ、部活動で使うためのタオルを引っ張り出した。

「とりあえず、そのままでは風邪を引いてしまう。これを使うといい。」

 タオルを差し出されたみょうじは、ぐっと息を呑んだあとに、震える声で「いらない」と絞り出した。

「いらなくはないだろう。」
「いいから、いらないから、東堂くん早くどこかに行って。」

 そんな言い方はないだろう、と東堂は声を荒げそうになったが、特徴的な目を歪ませて今にも泣きだしそうなみょうじを見ると押し黙ってしまう。少しばかり悩んだあとに、彼女の頭にタオルをかぶせ、わしわしとこすってやる。乾いていたタオルはみるみるうちに水分を吸い込んで、湿っていった。俯いている山吹の表情はわからなかったが、先程の言葉とは裏腹に抵抗は示さなかった。

「着替えた方がいいと思うが、体操着は持っていないのか?」
「…持ってない。」
「そうか。でも今日は体育祭の練習があるのだぞ?どうして持っていないのだ。」
「わたし、喘息持ってるから、お医者さんから体育祭は出るなって言われてるの。だから持ってきていない。」

 山吹の解答に「ほう」と頷いた東堂は「それは大変だな。だけど、喘息なら尚更その恰好ではだめだろう。体調を崩してしまう。」と言って、今度はロッカーから部活動用のジャージを引っ張り出してきた。背中に大きく自転車競技部の文字がつづられたそれをみて、みょうじはぎょっとした表情を見せたのち「いらない」と吐き捨てた。俯きがちな山吹の表情はほとんど見えないが、声音はずいぶん不機嫌そうだった。その言い方に、東堂はなんだか頭に来てしまい、強引に彼女との距離を詰める。そして、「いいから着替えろ」とジャージを突き出した。お互い何を意地になっているのか、にらみ合うように視線をぶつけあう。その間も、校庭からは体育祭の練習をする大勢の生徒のはしゃぎ声が聞こえる。甲高いホイッスルの音は、教師が集合をかける音か。
 沈黙の後、大きく息を漏らしたみょうじは、濡れたブレザーを乱暴に脱ぎ捨てて机に放り投げた。彼女の着ているカッターシャツの白さが、薄暗い部屋に映える。それから、半ばひったくるようにして東堂の手からジャージを奪い取って袖を通した。彼にはちょうどいいサイズのジャージも、みょうじにとってはずいぶん大きい。みょうじは東堂より少しばかり背が低いだけだったが、ひどく華奢だった。肩幅も狭く、余った袖が不格好に見える。

「…大きい。」
「ほんとだな。俺が着るとちょうどいいんだが。」
「そりゃあ、そうでしょ。」

 持てました裾をひっぱり、手を隠しながら視線を泳がせた彼女は、かすかな声で「ありがとう」と口にした。思いがけないその言葉に東堂は驚いたが、次の瞬間にはいつも通りの笑顔を振りまく。そして、それを見たみょうじは、薄い唇を持ち上げ、小さく微笑んだ。先程までの不機嫌さからは想像もしなかった表情に、東堂はどきまぎしてしまう。

「…わたし、保健室で休んでるから」
「そ、そうか。付き添おうか?」
「いい。早く、行って。」

 有無を許さないその言い方に東堂はぐっと押し黙ってから「きちんと保健室に行くのだぞ。」と苦し紛れに言ってみせた。それから踵を返して立ち去ろうとしたが、みょうじの「東堂くん、ハチマキ」というつぶやきに、忘れていた目的を思い出す。振り返った自分の顔がかあっと赤くなるような気がして、なんとか上手く誤魔化したかった。

「すっかり忘れていたよ!みょうじさん、教えてくれてありがとう。」

 東堂がそう言うと、みょうじはふるふるを首を横に振って、濡れた髪を煩わしそうに耳にかけた。その仕草が不思議と扇情的で、ほとんど無意識に東堂の目を奪った。
 慌てて教室から飛び出した東堂は、がらんどうの廊下で頭を抱えたいほどの気恥ずかしさに襲われた。みょうじの濡れた輪郭を、黒々としたあの髪を、青白い肌を、薄くて冷たそうなくちびるを思い出すと、どうも胸のあたりが熱を帯びて、肩のあたりがむずがゆく感じられた。

 その一方で、みょうじがひとり泣いていたことを、東堂は知る由もない。


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