※大学生



 高校を卒業して、息をつく間もなく新しい暮らしの準備を始めて、よく知らない土地にやってきて、ひとりの新生活が始まった。6畳の部屋に積みあがった段ボールを眺め、荒北は溜息をもらす。寮での生活はそれなりにやってきていたが、ひとりで暮らすという初めての経験に少しばかり戸惑っている自分がいた。この時期、テレビCMで繰り返しうるさいくらいに流れる「新生活」という言葉に、今回ばかりは当てはまっている。
 準備万端で引っ越し先に来たはずだというのに、実際にひとりで生活をしてみると、足りない物はいくらでも出てきた。積みあがった段ボールを開けては、荷物を定位置に移す作業、それから不足している物を買いに行くだけで、4月の1週目はあっと言う間に終わってしまった。


 そうこうして、部屋のなかがようやく落ち着いたかと思えば、今度は大学生活が始まった。何となしに携帯のカレンダーを見て、翌日から大学が始まるのだと気づいたときの落胆といったら。
 荒北の自宅から大学に行く道のりに、距離にして200メートルくらいの桜並木がある。彼がその道を通ったのは、大学の入学式の朝だった。着なれないスーツを身に着けて、今後は滅多に使わないであろうバスに乗って、雨降りの桜並木のなかを通り過ぎた。そのときは、堅苦しいスーツへの違和感や、たまたま座れた座席の窮屈さ、それから最悪の天候ばかりが気になってしまい、窓の外に意識を向ける余裕などほとんどなく、早く学校に着かないものかと思案していた。


 翌日、荒北は愛用しているロードバイクで大学に向かった。乗り慣れたロードバイクは居心地がよく、ペダルを踏む足はとても軽快だった。やはり、これが自分には合っていると荒北は思う。昨日降っていた雨は、朝になるとすっかり上がっていて、ぼんやりとした春らしい陽ざしが街を照らしている。地面はすっかり乾いていて、自転車が走るにもよいコンディションだった。ロードバイクのスピードを上げると、まだ見慣れない景色がぐんぐんと流れていく。
 昨日、バスで通った桜並木は、想定外に立派だった。直線の道路の脇に、等間隔で植えられた桜の木は満開を少し過ぎたころで、穏やかな風にふうわりと花びらがゆらされ、ぱらりぱらりと地面に落ちていく。ふと地面に視線を移すと、昨日の花降らしの雨によって散った桜の花びらが、道路一面に敷き詰められるかのように散らばっていた。桜色の絨毯の上を颯爽と駆け抜けると、風に舞いあがった花びらが目の前を掠めていく。ふいに強い風が吹いてきて、はたと視線を上げると、残りわずかになってきた花びらが薄桃色のシャワーのように降り注いでいた。


 それを見た荒北は、去年の春に自転車競技部の同級生と花見に行ったことを思い出した。提案したのは確か東堂で、その誘いにすぐさま乗ったのはマネージャーのみょうじだった。新開と福富もいいんじゃないかと頷き、荒北はだるいと言いながらもはしゃぐみょうじに引っ張られ、連れていかれた。
 現地までは、トレーニングがてら自転車で行こうということになり、ロードバイクを持っていないみょうじは、部の備品であるロードバイクを借りて出発した。初めはみょうじのペースに合わせて走っていたのだが、途中から東堂と新開が調子に乗って、どちらが先に目的地に到着できるか競争し始めた。福富もそのペースに乗せられてしまい、結局3人は全力で走り出してしまった。たまにロードバイクに乗るくらいのみょうじが、自転車競技部のレギュラーに追いつけるはずもなく、ビリを走る彼女のそばをついて走ったのは荒北だった。
 みょうじは息を弾ませながらも自分のペースでペダルを回し続け、全力で前を走っていく他のメンバーに「追いつけるわけないじゃん」と声を漏らした。それから罰の悪そうに、荒北に謝罪をした。

「ごめんね、わたしのペースに合わせてもらって」
「別にィ。」
「ほんとは荒北もみんなと一緒に走りたいでしょ」
「あいつらとはいつでも走れるし。みょうじチャン置いてって、すっ転んだりでもしたら大変だろうが。」
「そりゃあ前は転んでたけど、もう転ばないもん。」
「どーだか。」

 にやりと意地悪く笑う荒北を見て、みょうじは不服そうな視線を向けたが、そのあと「ありがとうね」と笑顔で言ってみせた。それを見た荒北が、ふいっとそっぽを向けば、今度はみょうじが「恥ずかしいんでしょ」と意地悪く笑う番だった。
 目的地が近づくと、沿道を縁どる桜並木が荒北とみょうじを出迎えた。満開の桜を見て、みょうじは歓喜の声を上げていた。

「ねぇ、荒北!見て見てすごい!」
「危ねェから前見ろヨ、みょうじチャン。」

 咎める荒北の声も耳に入らないのか、彼女は子どものようにはしゃいでいた。あの日もさっきのように強い風が吹いて、満開の花びらがぼろぼろと零れ落ていた。そしてそれは、目の前の視界を一瞬だけふさいでいった。
 



 ―――赤信号。荒北は慌ててブレーキをかけ、ロードバイクを停車させる。交差点の向こう側は別の街路樹が植えられており、桜並木はこの信号で終わりのようだった。背中では、桜並木がざわざわと揺れている。





「荒北、すき。」


 卒業式の終わった騒がしい中庭で、みょうじの絞り出したような声が、その言葉が、切なく反響した。目の前の彼女は、胸元に卒業生のためにあつらえられた花を差し、卒業証書の入った筒を柄にもなく両手で握りしめていた。伸ばしている最中だといっていた髪は、出会ったころに比べるとずいぶん伸びていて、まだブレザーだけでは肌寒く感じる風に揺れていた。部活中は作業の邪魔にならないようポニーテールにしていることが多かったので、髪を下した姿はどことなく見慣れない。加えて、薄曇りからさしこむ3月の陽ざしのせいで、みょうじの姿はぼんやりと霞んで見えた。


「バッカじゃねーの」
「は、」
「みょうじチャン、冗談きついヨ。何かの罰ゲーム?」
「ち、ちがう。そんなんじゃない。」

 鼻を真っ赤にして、こみあげてくる涙を抑えようとするみょうじは、息をすんと吸い込んでくちびるを噛みしめていた。その姿を、荒北は何度かみたことがある。つい最近だと、夏のインターハイ。箱根学園が2位となった結末。あのとき彼女は、何とか気丈にふるまおうと、今のように鼻を真っ赤にして涙を必死にこらえていた。

「言うなら、今日しかないじゃん」

 ついに、ぽろぽろと涙を流し始めたみょうじを見た荒北は、内心ぎょっとしながらも、その動揺を必死に隠そうとした。大げさに頭を掻き、いらだったように「泣くなよウゼェな」と言って、みょうじの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。

「荒北のバカ」
「…ウッゼ」
「わたし真剣だよ。冗談でも罰ゲームでもない。1年のころからすきだったんだもん」

 荒北の動きが、ぴたりと止まる。奥歯をぎゅっと噛みしめると、なぜだか頭の奥がくらりと揺れた。周囲の雑踏がすうっと遠くなっていく。ブレザーの裾で乱暴に目を拭ったせいで、みょうじの目はひりひりと赤くなっている。そこに今にも溢れそうな涙をためたまま、縋るような目つきで、彼女は荒北を見る。
 みょうじに、特別な感情を抱いていないといえば嘘になることを荒北自身はわかっていた。正直なところ、その感情はずっとぼんやりとしていたのだけれど、輪郭をはっきりと意識したのは、3年生になった春のことだった。みょうじと一緒に走った桜並木の下で、大量の花びらが視界をふさいだあの一瞬、目の前にいた彼女が姿を消した瞬間、訳もわからない焦燥感に駆られたのだ。

 ―――何で今そんなこと言うんだよ。今日が終われば、あとは離れ離れになっていくんじゃねーか。



「悪ィけど、遠恋とか、無理。」


 荒北が視線を逸らしてそう吐き捨てると、みょうじは少しの間のあとに「だよねぇ」と自嘲気味に返してきた。

「ただ、言いたかっただけだから。」

 憂いを帯びた彼女の声が、耳のなかへと落ちていく。それは荒北のどこかに根づくわけもなく、底なし沼に沈んでいった。
 遠くから、みょうじの友人が彼女を呼んでいる。声の先に手を振ったみょうじは「じゃあね、荒北。」とだけ告げて光の向こうに消えた。荒北は、手もち無沙汰になった両手を制服のポケットに突っこんでから、彼女が消えていった方向とは逆へと歩みを進めた。





 何であのとき、ああ言ってしまったのだろう。今さら思い出して後悔してしまう自分自身を、いつもの調子で罵倒してしまいたかった。新しい生活を目前に控えて、らしくもない不安をそれなり持っていて、そのなかで遠くにいるみょうじを傷つけるのが怖かったとでも考えれば、聞こえはいいのだろうか。彼女に抱いていた特別な感情は、まだ整理もつかず等閑になって心のかたすみに置かれている。
 信号が青色に代わる。ペダルを踏む足に力を入れて、前へ前へと進んでいく。交差点を越えると、途端に地面に散った花びらの数が少なくなって、終いにはなくなってしまった。春はいつも通り目の前にやって来るのに、1年前に見た彼女の姿は、もう見えない。


 



企画「恋愛標本」様に提出いたしました。
すてきな企画に参加させていただき、ありがとうございました。
title:空想アリア



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