高校2年生になった春、わたしは生まれた町に戻ってきた。そこで橘くんとはじめて会ったときから、わたしは彼を知っていると思った。だけど、どこで出会ったのかは全く思い出せなくて、頭のなかがむずかゆくてそわそわと落ち着きがなかった。できるならば脳みそを取り出して、そのなかから記憶のメモリーも取り出して、ひとつひとつ分析したいくらい。
 わたしはこの街で小学5年生まで過ごして、中学校は別の街に引っ越した。この町に戻ってくるにあたって、この学校に転入を決めたのは“家から近いから”という単純な理由。小学校までこの町で過ごしたのだから、知っているひとがいてもおかしくはない。
現に、小学生のときの友人と感動の再会を果たしたのだから。あのころは携帯電話なんてなく、今こうして再会できることは奇跡に近いと思う。

 わたしは、橘くんを初めて見たときに何だか懐かしいような気持ちがしたのだけど、何を考えたのか「はじめまして」と挨拶してしまった。少しの間のあとに、橘くんも「はじめまして」と返してくれたけれど、いやいや違うよな、はじめましてではないよなあともやもやしていた。何度か思い出そうと試みたけれど、全然わからない。わたしは記憶喪失なんてものになった記憶はないのだけれど。もしかして、記憶喪失になったことさえ記憶喪失しているのだろうかなどと考えたら頭ががんがんと痛くなったので、考えることをやめた。お母さんに「わたしって記憶喪失になったことないよね」と尋ねたら「あるわけないでしょ」とため息をつかれた。








 高校2年生になった春、俺はなまえちゃんと再会した。新しい教室に入って自分の席にたどり着くと、隣の席にはすでに人が座っていた。俺は、一目見て彼女はなまえちゃんだとわかった。高校生になって成長はしていたけれど、あのころの面影は残っていた。ラムネの瓶に入っているような真ん丸の瞳や少し低い鼻筋、眉が少し見えるくらいに切りそろえられた前髪。当時は肩ぐらいまでの長さだった髪の毛は背中の半分を隠すくらいに伸びていて、春の陽ざしにきらきらと揺れていた。
 まさか、彼女と再会するなんて思っていなかった。俺はあまりにもびっくりして口をぽかんと開けて動けずにいると、なまえちゃんもじいっと俺を見てくる。何て声をかけようか迷っているとなまえちゃんに先手を取られてしまった。


「はじめまして。」


 …あれ。おかしいな。聞き間違いなのかと思いながら「はじめまして」とおうむ返しをすると、なまえちゃんはにっこりと笑った。これで聞き間違いじゃないということが確定して、がっかりした。もしかして人違いだったのかと思ったけれど、なまえちゃんはにこにこしたまま自己紹介をしてくれて、「みょうじなまえ」という氏名は俺の記憶にあるなまえちゃんのフルネームと完全一致したので、決して人違いなんかじゃなかった。自分の名前を言えば思い出してくれるかと思って「橘真琴です」と自己紹介したけれど、なまえちゃんは「たちばなまことくん…橘くん…よろしくね。」と笑顔でスルーしていった。俺はちょっぴり涙が出そうになってしまった。


 なまえちゃんは小学生のとき、ひそかに恋焦がれていた女の子だ。同じスイミングクラブに通っていて、俺は選手コース、なまえちゃんは初心者コースに入っていた。通っていたスイミングクラブは、選手コースのメンバーが初心者コースのメンバーのサポートをする日があって、俺はなまえちゃんのサポートを担当していた。
 当時のなまえちゃんは本当に全然泳げなくて、顔に水もつけられなかった。何でスイミングクラブに入ったのか尋ねてみると「学校のプールで顔を水につけられないのはわたしだけだから」と恥ずかしそうに言った。その表情がなんだかかわいくて、「一緒にがんばろう」と励ますと、なまえちゃんは大きく首を縦に振った。
 もちろん、まずは水に顔をつけることができるように練習をはじめたけれど、なまえちゃんの水嫌いは相当のものだった。何せ、「顔を洗うときも少し緊張する」と言うのだから。
「大丈夫、怖くないよ。なまえちゃん、プールに体を入れれてるんだから、練習すれば顔も水につけれるよ」
 俺はそうやって彼女を励ました。そのたびに彼女はくちびるをぎゅうっと結んで、小さく頷いてくれた。なまえちゃんは怖がりだけど、勇敢だった。「もうできない」と弱音を吐くことはただの一度もなかった。俺は、なまえちゃんのそんなところがすきだった。









 橘くんは席が隣同士ということもあるのだろうけれど、わたしのことを気にかけてくれているようでよく話しかけてくれる。数学の時間、練習問題が解けずにうんうん唸っているわたしを見て、橘くんは「具合が悪いの?」と声をかけてくれた。「わたし、数学が破壊的に苦手なの」と言うと、その言い回しがおもしろかったのか「破壊的って」と笑っていたけれど、それ以来わたしがあまりにも授業中わからなくてフリーズしていると「今のはこういうこと」と簡単なメモを渡してくれるようになった。それは先生の説明よりとてもわかりやすくて、わたしは感動した。しかも、橘くんはきれいで大人っぽい字を書く。わたしの丸文字とは大違いだ。そのメモは捨てるのがもったいなくて、とりあえずペンケースにしまっておくことにした。
 それから、橘くんメモでもちょっと難しいなと思うところは、ノートに緑色のペンで星マークをつけて、あとから橘くんに聞くようにした。橘くんは本当に嫌な顔ひとつせず教えてくれる。わたしはこっそり、橘くんを数学の神さまだと崇め奉っている。その神さまに、ちょっとしたお礼として、手持ちのあめ玉とかチョコレートとか小さなお菓子を渡している。それを受け取るときの橘くんの手はとても大きくて、わたしの手のひらに乗っていても小さなお菓子たちはもっと小さくなったように見える。
 そんなことが積み重なって、数学の知識が増えるとともに、わたしと橘くんの仲は深まった。抜き打ちで行われた小テストで50点を取れたときは、涙が出るくらいうれしかった。わたしは今まで、数学の小テストで30点以上取ったことがない。母親も奇跡だと喜んでいた。それもこれも、橘くんのおかげなのだ。









 なまえちゃんは俺のことなんて覚えていなかったんだなあと思うとショックだったけれど、幸か不幸か席が隣同士になったことで話す機会は多かった。
 数学の時間に黒板を見てフリーズしているなまえちゃんに「大丈夫?」声をかけると、
真っくろに焦げたトーストを食べたときのような表情で「数学が破壊的に苦手なの」と話した。その表情と言い回しが独特で、なんだか面白くて「破壊的って」と笑うと「だって、考えても考えてもわかんないんだもん」とうなだれた。
 そういえば、スイミングクラブにいたときもお母さんの迎えを待っている間、ロビーで受付のお姉さんに算数の問題を教えてもらっていたなあと思い出す。

「でも、やらなきゃいけないもんね。」

 なまえちゃんはそうして自分を奮い立たせていたけれど、フリーズのしかたが端から見てもすぐにわかるくらいのさまだったので、ちょっとした解説を書いたメモを渡すと、彼女の濁った目がきらきらした光を取り戻した。
 その姿を見てほっとしていると、なまえちゃんはうすいピンク色のメモを渡してきた。2つ折りになっているそれを開くと「ありがとう。少しだけわかった気がする。」と丸っこいかわいらしい字で書かれていた。
 そして、後から「橘くんのメモ、ちょっとしか書いてないのにすごくわかりやすかった!」と言われたので、俺も気を良くしてなまえちゃんがわからないと言うところを教えてあげるとこっちが嬉しくなるくらい感動してくれた。

「俺で教えられるところは教えるから、言って。」

 そう伝えると、なまえちゃんは「神さまがいる…!」と大げさなことを言っていた。
 それからというもの、彼女はお礼としてあめ玉やチョコレートをくれる。なまえちゃんはお菓子専用のポーチを持っているようで、そこからは見たことがないお菓子が飛び出すこともある。「これは新発売なんだよ」とか「これはあのコンビニでしか売ってないの」とか情報豊か。

 そんなある日、なまえちゃんは「わたし、橘くんにきちんとお礼がしたいの。」と言われた。

「この間の小テスト、わたし人生で初めて50点なんて取れたの!奇跡だよ!」

 50点って、正直喜んでいいのか微妙な点数だ。けれど、なまえちゃんはずいぶんと嬉しいみたいで、テストを返却されたときも半分泣きそうな顔で俺にテストを見せてくれた。

「お礼って、いつもお菓子もらってるし、十分だよ。」
「あれは、ほんとにちょっとしたお礼だからさ。何か本格的なお礼を…といっても高い物は無理だけど…。」
「そんな、いいよ。俺だってみょうじさんにわかってもらうの嬉しいし。」
「そう言ってくれるのはうれしいんだけど…そんなこと言わずにさ、ちょっとしたものならおごったりできるし、橘くんは好きな食べ物とかないの?」

 ずいっと迫ってくるなまえちゃんに、びっくりする。だって顔、近いし。なまえちゃんはそんなことを気にしていないのか、長いまつげで縁どられたガラス玉のような瞳でこちらをじっと見ている。心なしが甘い香りがふんわりと鼻をくすぐって、思わずどきどきしてしまうけれど、心の隅ではちょっと寂しかった。
 俺がなまえちゃんに数学を教えているのに見返りなんて求めていないし、本当に大したことはしていない。ここでなまえちゃんの言う“本格的なお礼”をもらってしまうと、今後もそうやってお礼をし続けられる関係が続きそうな気がした。俺はなまえちゃんとそんな関係にはなりたくない。
 その気持ちを素直に言えばよかったのだろうけど、寂しい気持ちを埋めるためにちょっといじわるをしてしまおうと思い、「それじゃあ、ひとつお願いしていい?」と切り出す。なまえちゃんは待ってましたと言わんばかりに「何でもどうぞ!」お行儀よくする子どものように手を膝の上に置いて姿勢を正した。




「みょうじさん、俺のこと思い出してくれるかな?」




 こういえば、なまえちゃんは俺のこと、思い出してくれるかなと思ったけれど、予想以上に彼女は驚いていた。大きな目をもっと大きく見開いて、膝の上に置かれた手はぐっと力がこもっている。この表情はなまえちゃんも思い当たるところがあったのか、そうじゃないのかわからなくて、とりあえず黙っていると、少しの間を置いて「わたしも思ってたの。わたし、橘くんのこと知ってるって。」と口にした。その言葉に、今度は俺が目を真ん丸くする番だった。心臓が、さっきとは違う脈の打ち方をしている。とても、どきどきしている。けれど、続いた「でも、思い出せないんだよね…。」という言葉にがっかりしてしまった。思いっきり残念な表情になっていたのか、なまえちゃんは慌てて「ごめんね、何度も思い出そうとしたんだけど」と付け足した。

「俺はみょうじさんのこと、すぐわかったよ。このクラスで見たときから。」
「え、ええー…なんかずるい。何で橘くんは覚えてたの?」
「それは思い出したら教えてあげる。」
「…橘くん、ちょっといじわる。」

 眉間にしわを寄せて、懸命に悩むなまえちゃんの姿がかわいらしくて、思わず笑みがこぼれそうになる。それをぐっとこらえるけれど、おかしな顔になっていることは自分でもわかった。



「なまえちゃん、思い出して。」



 あのころと同じ呼び方で、なまえちゃんを呼ぶ。君が、俺のことを思い出してくれることを期待して。









 ――なまえちゃん、思い出して。
 自分自身の名前が、橘くん特有の音でひびいた。その感じがとても懐かしくて、とつぜん記憶の箱が開いた。目の前の笑顔より、少しだけ幼い顔で笑っている橘くんの記憶。そうだ、橘くんはスイミングスクールにいた男の子だ。

 わたしは思わず息をのんだ。









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