クロさんが死んだ。朝起きたら、クロさんはわたしのベッドの上で冷たくなっていた。触れなくてもわかった。ほとんど直感的に、こてんと横たわるクロさんを一目見て「ああ、いなくなっちゃったんだ」とわかった。おそるおそるクロさんに触れるとやっぱり冷たくなっていて、ぼろぼろと涙がこぼれた。
 クロさんは、わたしの家で一緒に住んでる黒猫だ。17年も生きた。クロさんとわたしは同い年だけど、クロさんの方が少しだけ早くこの家に来ている。わたしは、生まれたときからクロさんと一緒だった。ここ何か月かずっとクロさんの具合が悪くて、定期的に病院にも通っていた。家族みんながクロさんのことを心配していた。わたしたちはみんな、クロさんのことが大好きだから。
 家族みんなに撫でられるクロさんは、もう気持ちよさそうに身じろぎしたり鳴いたりしないとわかっているけれど、とても穏やかな顔をしているように見えた。涙が止まらないわたしに、おばあちゃんは「動物は亡くなるとき、静かなで安心できる場所に行くんだよ。クロさんにとっては、なまえちゃんの傍がそうだったんだね。」と背中をさすってくれた。
 クロさんを見送る準備はお母さんとおばあちゃんがするからと、わたしは学校に行くように言われた。学校なんて行っている場合かと思ったが、お母さんは「火葬する場所が見つからないとお見送りの準備もできないから」と、さっさと顔を洗ってこいとわたしを洗面所に押し入れた。
 大きな鏡に映ったわたしは、寝起きということも相まってひどい顔をしていた。目は真っ赤だし、まぶたもぽってりと赤くなっている。ぴちゃぴちゃと冷たい水で顔を洗うと、悲しさで熱くなった頭のなかが、少しだけひんやりとした。







 初春の空は、重苦しくどんよりと曇っていた。厚い灰色がすっかり空を覆って、お日さまを隠しきっている。 わたしはいつも通りの時間に家を出て、いつも通り自転車で学校に向かう。通学路もいつも通りだし、わたしの制服もいつも通り。何もかもがいつも通りだった。唯一違うのは、こうやって学校に行って家に帰っても、クロさんがいないということだ。つやつやの黒い毛をかがやかせて、ちょっぴり太り気味だった体でゆうゆうと部屋を闊歩するクロさんは、もういない。
 そう思ったら、ぶわりと涙があふれてしまった。わたしはブレザーの裾で涙を拭いながら自転車をこぎ続けた。少しふらついたけれど、周りに人も車もいなくてよかった。ほんとうに、よかった。


 偶然にも人気が少ない自転車置き場で、ひとつ深呼吸をしてから校舎へと向かう。学校に入ったら、もうぼろぼろ泣くわけにはいかない。幸いにも今日の授業は午前中だけだ。
それだけ耐えれば家に帰ることができる。
 昇降口で下駄箱を開けると、うしろから「おはよう、みょうじさん」と声をかけられた。顔を向けると、クラスメイトの橘くんがにこにことしていて、その一歩うしろに七瀬くんが立っていた。わたしは靴をつまんだまま橘くんに「おはよう」と返す。

「七瀬くんもおはよう」

 うしろにいる七瀬くんにも同じように声をかけたけれど、わたしの声は中途半端に消えていった。七瀬くんを見たら、クロさんを思い出してしまった。彼の黒くてきれいな髪の毛と、すこしつり上がった青色の瞳は、クロさんと一緒だった。
 哀しさのスイッチを押してしまったかのように、ふたつの目からぽろぽろと雫がこぼれる。ふたりともぎょっとしているのがわかって、「ごめんね、何でもないから」と口にしたけれど、それでも涙は止まらないから説得力なんてないにも等しい。橘くんは少しおろおろとしている様子だったけれど、七瀬くんは冷静でいるように見えた。しかも、意識しているのか無意識なのかわからないけれど、ふたりともわたしが人目につかないように立ってくれている。そんなふたりを観察できるくらい、わたしも落ち着いていた。けれど、身体じゅうの神経が全部ばらばらになってしまったような感覚で、わたしの冷静な意識もぽっかり宙に浮かんでいるようだった。

「保健室、行くか?」

 そう問いかけたのは、七瀬くんだった。このまま涙は止まりそうになかったので、わたしはこくりとうなずいた。

「ハル、俺も行こうか?」
「いい。もしホームルームに間に合わなかったら、担任に話してほしい。」
「うん、わかった。」

 わたしの頭の上で繰り広げられるふたりの会話に「迷惑かけてごめんね」と言うしかできなかった。





 七瀬くんにひっぱられてたどり着いた保健室のドアには、出張中のプレートが下げられていた。そのころにはわたしの涙も止まっていて、ホームルーム間近の廊下は少しばかりがやついていた。
 「職員室で鍵を借りてくる」という七瀬くんを引き留め、わたしは「大丈夫だから」と笑ってみせた。だけど七瀬くんは、きゅっと眉をひそめて難しそうな顔をする。

「大丈夫じゃないだろ」
「でも、頭が痛いとかお腹が痛いわけじゃないから」
「そんな顔して、大丈夫なわけがない」

 そう言われると、なんにも言い訳できなくなる。わたしはぐっと押し黙って、作り笑いをほどいてから口元を結んだ。
 ホームルーム開始をしらせるチャイムが鳴り出して、廊下の喧騒は教室の中へと消えていく。橘くんはわたしたちのこと、きちんと先生に伝えてくれてるんだろう。あとでお礼を言わなくてはいけない。
 割れそうな風船のようにふくらんだ沈黙がわたしは苦しかったのだけど、七瀬くんは「少しここにいるか」と保健室のドアを背もたれにして、廊下に座り込んだ。わたしにも隣に座るように促され、スカートのプリーツが崩れないか気にしながら三角座りをする。ひんやりとした廊下の冷たさが足元から駆け上がってきて、体がぶるりと震えた。

「寒いか?」
「うん、ちょっと。でも平気だよ。」

 わたしはそう答えたにも関わらず、七瀬くんは着ていたピーコートを脱いで膝にかけてくれた。「七瀬くんが寒いだろうからいいよ」と言ったけれど、「俺は平気だ。下に水着も着ているし」と返された。そういえば、前に橘くんが「ハルが水着選ぶのに時間かかって遅刻しそうだったよ」と話していた気がする。そのころは夏だったから、部活動で着替えの手間を減らすためなのかななんて思っていたけれど、どうやら彼は日常的に水着を着用しているらしい。

「じゃあ、お言葉に甘えて借りるね。」
「ああ」
「でも七瀬くんが寒くなったらすぐ言ってね。」

 すぐにコートを返すから、と言うと、彼はこくりと頷いた。

 それからわたしは、七瀬くんに泣き出してしまった理由を話した。17年間、わたしが生まれてからずっと一緒だったクロさんが、今朝旅立って行ってしまったこと。七瀬くんを見たらクロさんを思い出してしまったということは、とりあえず伏せておいた。事情を理解してくれた七瀬くんは「つらかったな」と声をかけてくれた。そんなこと言われたら、余計に泣いてしまう。我慢しなくてもいいんだと思えてしまう。
 七瀬くんにクロさんはどんな猫なのかと聞かれ、わたしはクロさんの特徴を話した。すると、七瀬くんはおもむろに携帯電話を取り出して、ぽちぽちと何か操作している。

「もしかして、クロさんってこいつか」

 七瀬くんに見せられた携帯の画面には、特徴的な青い瞳をカメラにしっかりと向け、見慣れた首輪をつけたクロさんが写っていた。わたしは驚いて七瀬くんを見つめる。

「こいつ、たまにうちに来てたんだ。首輪がついてるからノラじゃないとは思ってたけど」

 クロさんはときどき外出することがあったけれど、暗くなる前に必ず我が家に帰ってきた。クロさんに「どこに行ったの?」なんて尋ねてもかわいらしい声でにゃおと返してくれるだけで、どこに出かけているかはわからなかった。まさか、外出先のひとつが七瀬くんの家だったなんて。

「最近、来なくなったから心配してた」
「何か月か前から具合がよくなくて、家から出なくなっちゃったの」

 七瀬くんの携帯には、クロさんの写真が何枚かあった。どの写真もかなり近くで撮られていて、凛々しい目つきが気持ちよさそうに細くなっているクロさんもいた。それだけクロさんが七瀬くんに懐いて、リラックスしていたのだろう。

「七瀬くん、クロさんに似てるよね。」

 言わないつもりでいたその言葉を伝えると、彼は「そうか?」を小さく首を傾げる。その青色の瞳がわたしに向けられたら、また視界が滲みだして、声がかすれてしまった。

「うん、似てるの。だから、さっき七瀬くんを見たら、つい思い出しちゃった。」

 七瀬くんは「うまく言えないけど、見ないから泣きたいだけ泣けばいい」とだけ言って、そっと隣にいてくれた。それだけで、今のわたしにはじゅうぶんだった。


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