水色のハンカチを拾った。薄暗い廊下で、そのハンカチはぽつんと落ちていて、誰かに見つけてもらうことを待っているようだった。わたしはそれを拾い上げ、おもむろに広げてみる。すると、すみっこに何かの花と「A.A」という刺繍が入っていた。とても丁寧に仕立てられたふたつの刺繍は美しくて、思わず指でなぞってしまう。
 「A.A」は持ち主のイニシャルだろうか。こんなに素敵なハンカチを落としてしまって、持ち主は困っていないだろうか。教官に遺失物として届けた方がいいだろうか。いろいろな考えを巡らせていると、唐突に鐘が鳴り響いた。午後6時を知らせる鐘だ。わたしははっとして、駆け足で校舎の出口へと向かう。ぼさっとしていると施錠された校舎に閉じ込められて、翌朝まで出れなくなってしまう。拾ったハンカチは、落とさないように制服のポケットにしまい込んだ。



 翌朝、宿舎をぎりぎりに出たわたしは、昨日拾ったハンカチをポケットに入れっぱなしだったことに気がついた。昨日はあのあと、急遽食事当番の交代を頼まれてずっとばたばたしていたのだ。
 ――すっかり忘れていた。
 今さらハンカチを置きに戻るわけにもいかず、わたしは溜息を落とす。今日の訓練予定を頭の中でなぞると、午後から格闘訓練が待っている。もし、そこでこのハンカチを落としてしまったらどうしようという不安に襲われた。やっぱり、昼休みに教官に届け出た方がいいだろう。

 しかし、朝礼で午後から教官たちの会議があるため、午後の格闘訓練は中止になると言われた。「午後は各自自習に励むように」と教官は釘を刺したが、「自習」という言葉に教室の雰囲気は少し和らいだ。
 午前中は立体起動に関する座学だった。わたしは教室後方の席を陣取り、心地よい日差しを浴びてうつらうつらとしていた。隣に座っている友人は完全に舟を漕いでいる。起こしてやろうかと思ったが、とばっちりをもらいかねないので知らんぷりを決め込んだ。ぐるりと教室を見まわすと、普段より眠たげにしている訓練兵が多いように感じる。午後の訓練がなくなった安心感からなのか、この心地よい日差しがちょうどよく部屋を暖めているせいなのか、はたまた朝食のスープにベーコンの欠片が入っていたからか。
 そんなことを思いめぐらせていると、わたしの目は窓際最前列にいる同期生に留まった。
 ――アルミン。
 わたしの座っている場所からアルミンの表情は見えなかったが、教官の話に時折頷きながら聞いている後姿を見ると、真剣に授業に取り組んでいる様子が伺える。彼の動きに合わせて、黄金色の髪がきらりと揺れる。わたしは、しばしその輝きに見とれた。

 アルミンは、恐らく同期生の中で一番真剣に座学に取り組んでいる。体術や立体起動をはじめとする戦闘訓練は得意ではないらしく、下位グループに入る成績のようだが、座学では毎回積極的に取り組み、上位を争う好成績を残している。わたしのように、すべての成績が中の中であるような訓練兵は大多数として存在が霞んでいるが、座学が好成績のアルミンは同期の中でも存在感を放っていた。
 「戦闘訓練はてんでできないから、座学ではああやって教官にアピールして点数を稼いでいる」と言う者もいるが、それは彼らにとって自身の不甲斐なさを他者に自覚させる、ただの妬みだ。そんなことにも気づかず、その言葉を繰り返す者を見ると、わたしはほとほとは呆れてしまう。アルミンを見ていればわかる。彼は、座学を楽しんでいる。彼にとって座学は勉強ではなく、純粋に知識を学ぶことなのだろう。

「ではこの問いについて、アルレルト、答えてみろ。」
 教官の呼びかけに、アルミンは「はい」と返事をして解答を始める。彼のよく通る声が教室中に響き、それは後列にいるわたしにもしっかりと届いた。
 わたしは、アルミンについてよく知らないくせに、彼のことを買い被りすぎているかもしれない。食事当番のときに食事を受け取ったことはあるが、それ以外に話したことがあるかというと、記憶にない。 そのときの記憶を遡って浮かび上がるのは、食器を手渡す彼の手が予想以上に大きくて骨ばっていたことだった。彼の中性的な姿形や少しばかり高めの声からは想像もできなかったその手に、わたしの心はどくんと高鳴った。
 ――そういえば、アルミンのイニシャルって…。
 ふと、胸元にしまわれた水色のハンカチを思い出す。アルミン・アルレルト。彼のイニシャルは、「A.A」だ。



 午前中の座学は無事に終わったが、教官は午後からの自習課題としてレポートを書くように命じた。それぞれ思うままに自習に励もうと思っていたのだろうし、あわよくば自習にさえ取り組むまいと考えていた者もいたのだろう。教室の中は落胆の色に染まった。
「最近、座学の課題多くない?もう全然休まらないよ。」
 友人は大きく伸びをしながら言う。それにぼんやりと返事をしながら、わたしは上の空でいた。今抱えている大きな課題は、昨日拾ったハンカチが本当にアルミンの物か確認することだった。朝思い浮かべていた、教官に遺失物として提出する考えはすっかり消え去っていた。
 昼食のとき、食堂でアルミンに声をかけてみようかと思ったが、彼の周りにはいつもエレンとミカサがいる。わたしは、2人が少しばかり怖かった。エレンはいつもジャンと口論になっているし、ミカサの冷ややかな視線は余計な人を寄せ付けない雰囲気を醸し出している。
「ナマエ、聞いてるの?」
 ルームメイトに肩を叩かれ、驚きのあまりおかしな声を出してしまうと、彼女は「なぁに、それ?」とくすくす笑う。
「お昼食べたら、図書館で勉強しようよ。今日の課題、文献見ないと解けなそうだし。」
「ああ…うん、そうだね。」
 いつものわたしだったら、今日の昼食のメニューは何か、それから午後の訓練は億劫だなと思っているところだが、今日に限ってはそんなこと考えてもいられなかった。



 午後の図書館は、珍しく人が多かった。恐らく、みんな提出された課題に取り組むために来ているのだろう。わたしたちも4人掛けのテーブルを陣取り、手分けして文献を探すことにした。こつこつとペンが机を叩く音、課題について話し合うひそひそとした声、絨毯張りの床に吸い込まれていく足音。いつもはしんと静かな図書館の中も、今日は僅かにざわついていた。
 ここの図書室はかなり広い。ジャンルごとに仕分けはされているが、目当ての本を探すのは一苦労だ。背の高い本棚に張られたジャンルのプレートを目でなぞっていると、本棚の間にいるひとりの人物に目が留まった。その瞬間、胸が高鳴り、咄嗟に息を飲み込む。
――アルミンだ。
 わたしは咄嗟に本棚の影に隠れてしまう。結局、昼食のときアルミンに話しかけることは叶わなかったのだ。次は夕食のときだろうかと考えていた矢先の出来事にわたしの思考はついていくことができず、ぐるぐると混乱しだす。
 落ち着かなければと息を深く吸い込み、ゆっくりと吐き出す。本棚の影から再びアルミンの姿を確認すると、どうやら彼も文献を探しているようだった。首をうんと伸ばして本の背表紙を目で追っている。
 話しかけるなら、絶対に今がチャンスだと思った。そっと胸元のポケットに触れ、ハンカチが入っていることを確かめる。急に声をかけて迷惑ではないかという考えが一瞬頭をよぎったが、わたしは意識的にそれを打ち消す。あのハンカチがないことで、アルミンが困っているかもしれない。そう自分に言い聞かせながら、そっと彼に近づいていく。

「アルミン」
 上ずった声で声をかけると、本から顔を上げたアルミンは少しばかり驚いた顔をして「ナマエ、だよね?」と微笑んだ。わたしの名前を知っていたのかという驚きと高揚感に、軽く眩暈がする。
「急にごめんね。あの、アルミンに聞きたいことがあって。」
「聞きたいこと?」
 わたしはこくりと頷くと、胸元から青いハンカチを取り出し、刺繍がある面をアルミンに差し出した。これはアルミンのものかと問う前に、彼は「あっ」と声を上げた。
「これ、僕のだよ。」
 その言葉を聞いて、わたしはほっと胸を撫で下ろした。
「よかった。じゃあ、これ返すね。」
 差し出したハンカチが、アルミンの手に渡っていく。ハンカチを受け取るアルミンの手は、あのときと同じで大きくて骨ばっていて、思わず見とれそうになった。
「これ、探してたんだ。どこかで拾ってくれたの?」
「そう。西棟の教室の前で拾ったの。」
「そっか…。本当にありがとう、ナマエ。」
 アルミンにそんなことを言われると、少し照れくさい気分になる。顔がばかみたいに熱を持っていて、またくらくらしたので、耳にかけていた髪を手ぐしで下ろし、目を伏せた。
「これ、よく僕のだってわかったね。」
「それ…A.Aってイニシャルよね。それで。」
「ああ、そうか。」
「刺繍、とてもすてきね。花もイニシャルも、きれいにできてる。」
 わたしがそう褒めると、アルミンはにっこりと笑って「そうでしょう。これ、ミカサが誕生日にくれたんだ」と声を弾ませた。
 ――ミカサ。いつもアルミンと一緒にいる、あの女の子。
 すると、わたしの中にぐわりぐわりと曇った感情が湧いてくる。わたしには、その感情の間を掻き分けて分別する勇気はなかった。これは触れてはいけない。不用意に踏み込んで、この雲に飲まれてしまえば、アルミンの前に立つことができなくなる。

 微笑んでいるアルミンの奥にある、アーチ型の窓から午後の生温い日差しが射しこんでくる。それはアルミンに音もなく触れて、光の粒をまき散らしていく。わたしは、言葉が紡げなくなってしまい、辛うじて顔に張りつけた笑顔を彼に向ける。

 ――わたしも、彼に触れることができればいいのに。

 そう思うのは、わたしにとってアルミンがうつくしい人だからだ。


140429:加筆修正



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