Lv4 合成洗剤 (花月)


 懐古主義という訳ではなかった。
 ただふとしたときに、俺のことを誰も知らない世界で一からやり直したいと思うときがある。例えば無条件に空が綺麗な青色だったときだったり、例えば朝起きたときに鳴く小鳥の囀りを聞いたときだったり。その瞬間は突然に訪れて、その理由は本当に日常の些細なものだ。何気ない日常の中ふ、と意識が別の次元に飛んでしまうとき俺はどうしてか思ってしまう。ただただ、どこにあるのかも分からないその場所に“帰りたい”、と。
 ねえ、それが悪かったのですか、かみさま。



 だからといって本当にそうなってしまいたい訳でもない。今まで築いてきたものを全て投げ捨ててまでまた一から新しいものを拾い集めて行く気にもなれないし、お世話になった人たちを裏切るような真似を俺は絶対にしたくなかった。現状に不満を抱いているのではないのだ。むしろこの現状はとても恵まれているといえるだろう。
 ただ俺の抱いている幻想は誰もが思い描く“現実逃避”の重傷バージョンなだけで、別にどこかのメンヘラやたちの悪いオタクのように次元を見間違えているのではない。向き合っていた現実に目をそらす期間が少しだけ俺は長いだけなのだ。

 なんて、言い訳しても俺がこのままでは社会に適合するのに無理があるのは分かっている。どうしてもぼー、としてしまうことが多い俺がまともな会社にとって扱いづらいことこの上ないだろうことは俺自身が誰よりも分かっていたのだ。そんな俺のことを数少ない学生時代の友人は「お前は潔癖だからな」と物知り顔で笑っていた。確かにそうかも知れないと、当時擦れていた俺が妙に素直に納得してしまったのを覚えている。多分、俺の人生の分岐でありきっかけは友人のこの言葉だった。

 そして紆余曲折あって今現在俺は何の因果か掃除用ブラシ片手に見事にとある会社の専属敏腕清掃員として活躍している。友人の一言がモロに俺の人生に影響した結果であるため正直何とも言えないが、俺の人生何とかなっているということだ。掃除という趣味が仕事になり、それで食っていけているのだから過不足ない生き方が出来ている今時珍しいくらい順風満帆な人生。それでもどこか“詰まらない”と感じるのだから、人生なんてこんなもんだろうと悟るには十分なものである。


「南雲せんぱぁい?」


 新人の特徴的な間延びした声が俺の名前を呼ぶ。
 礼儀はないがそれなりに仕事への熱意と責任感がある、コネと媚びで成りあがった無能な上司に任された(押し付けられた)大事な人材だ。高卒という瑞々しい若さを武器に、俺には到底ありそうにない十分な伸び白とスポンジのように吸収する掃除の才能、そして顔面の才能をトリプルに兼ねそろえた期待の大型新人。このまま育てていってゆくゆくは出世して俺の上司になってくれないだろうかと密かに願いつつ、今日も今日とて俺はいつも通り穏やかで温厚な尊敬できる先輩の面を被りながらにこやかに笑うのだ。
 被る猫の皮は厚いぜ、にゃんにゃん。

「いや、なんでもない。……さて今日は掃除人の鬼門であり基本、トイレ掃除に取り掛かろうと思います」

「うっす!」

「よろしい。いい返事です。申し訳ないですけど少しここで待機してくださいね、掃除道具を忘れてきてしまいました」

「はあ!? マジっすか!? ……あれ(仕事道具)あるの地下っすよね、南雲先輩大丈夫っすか? 俺が行くっすよ?」

「貴方まだ道具の種類ちゃんと把握できてないでしょう。先日は間違えてフローリングにカビキラー持って来たじゃあないですか。今度きちんと教えて差し上げますから、今日は俺に任せてくださいね」

「でもフローリングにカビキラー大丈夫だって知恵袋で言ってたっすよ!」

「プロがそんな素人の浅知恵みたいなのをやってはいけません」

 ちょっとこの新人は、ほんとう、なんというか、うん。控えめに言ってちょっと頭が足りないのだ。一般の方でプロを呼ぶ余裕がないときフローリングにカビキラーは使っても問題が無いがことが多いけれど、フローリングがカビに深く浸食されている場合、フローリングの木材が腐食してよりダメージを与えてしまうことがある。そうでなくても色が抜けてしまうのだ。どこをとってもプロのやっていいことではない。知恵袋の知識を鵜呑みにするなと新人にきつく注意をしてから、俺は掃除道具が置いてある倉庫のような一室に重い足を向けた。正直まだ使えない新人と二人で仕事するより俺一人でやる方が迅速だし何より俺が楽しいけれど、しかしまあ新人を将来の上司様にするという俺の野望のためにはこ っそりと頑張るしかないのだろう。

 はあ、と気苦労からくる重々しい溜息を吐きながら、俺を雇っている会社が所有している建物の地下にある清掃員部屋、もとい粗末な雑用部屋へ赴くために長い長い非常階段を降りていた。俺が新人といた階が六階のはずで雑用部屋があるのは地下五階という中々遠い道のりである。
正直俺は得意な掃除ならいつまででもできるが元来体力はない貧相な人間で、恐らくまだまだ続くであろう階段地獄も序盤であるにも関わらず息切れがやばい。社員用エレベーターを使えば仕事前にこんな思いしなくて済んだはずなんだが、あの無能な上司が社員証を忘れたせいで俺たち二人はエレベーターが使えない事態になっている。俺たちが専属の清掃員だと分かってくれる理解ある社員さんだったからこそ何とか仕事ができるにせよ、だからといって優秀過ぎる機械が社員証のない俺たちを融通してくれるはずもなく。俺は今この忌々しき階段を使う羽目になってしまっている。

そんな、あの上司いつかブチ転がしてやろうかという思いと、建物の不便さについて愚痴を正にぐちぐちと言いつつ非常階段を降りていたらふ、と掃除人ならではの気になるものを発見した。壁の中央あたりからカビのような亀裂のようなものが刻まれているのだ。カビならばともかく亀裂は掃除の範囲外なのでどうしようもないけれど、カビだったとしたら雑用部屋から掃除道具持ってきたついでに消せばいいと、今は気の遠くなるほどの階段を降りることを優先しカビもどきを後回しにしてまた足を動かした。

――おそらくこの行動が、俺の第二の人生、最大の分岐点になったのかもしれない。

「あ、れぇ……?」

 ぜいはあ、と大人しく新人に任せていればする必要もなかった息切れを整えながら、ついに辿り着いた雑用部屋のドアを押す。少しは休憩もしたいものだがだからといって私情で、しかも新人を待たせた状態で俺だけ休む訳にもいかない。だから乱れた息も中途半端にドアを開こうと次のアクションに移したというのに、まさかの非常事態だ。
 グッ、グッ、とドアを押してみるも、ドアが、開かない。
 もう一度、今度はもっと力を込めて押す。が、やはり開かない。というかビクともしないせいで俺の顔が点になっている気がする。確か押すタイプのドアだったはずだが、俺の気のせいだっただろうか。
 今度は引いてみるが、うん。予感はしていた。

「あ、か、ねえんだけど……!?」

 ウンともスンとも言わねえな、このドア!?
 誰もいない今優しい先輩の面なんて投げ捨てるわ!! いっそタックルしてやろうか!! あ、駄目だわこれ賠償覚悟でやったけど壊れもしないってどういうことだよ!!
 押しても引いても何をやっても、本当にこのドアビクともしない。木製の安っぽい材質のくせにぎしり、とかいう軋む音一つしないなんて異常としか言えないだろう。本当なんだこれ。

「どう、しようか」

 新人は待っているだろう。俺は仕事を、掃除をしなくては、いけないのに。
 そう、俺がぽつりと呟くと後ろから小さく、きし、きし、と見なくても分かる、何だか嫌な音が近づいている気配がした。
 後ろが、怖い。けれど何と言われようと俺も男で、微妙に湧いてくる少年心という名の好奇心に見事、負けた。ゆっくり、ゆっくり後ろを振り向く。

「う、わあああぁぁ…………」

 振り向いたことを心から後悔した。
 というか生命の終わりを覚悟した。もはやか細い悲鳴しか出ない。
 亀裂? 先ほど見た亀裂とよく似たものが建物を、空間を引き裂いて俺の方へ迫って来ているのだ。引き裂いた空間は闇のように真っ暗で一目見ただけでどうにもならないと悟ってしまうほどに気持ち悪いものが、もう俺が逃げても無駄だと思えるようなスピードで、すぐそこに来ていた。まるで意志でもあるのかというほど俺の元へ真っ直ぐに。

「ああ、俺、しぬ」

 唯一、可能性は絶望的に近いが、逃げ込めるかもしれないドアの向こうへ行こうとするもやはりドアは開いてはくれなかった。ああ絶望。もう無理。
 俺はドアの前でへたり込んで、光のない地下ならではの天井を見上げた。日の光のない、こんな無機質な明かりしかない場所で、俺は意味も分からないあんなものに呑み込まれて、また意味なく死んでしまうのだろうか。嫌だなあ、うん。死にたくない。
 だって、俺の将来の上司になってもらうべく育てていたクソ生意気で可愛い新人はまだまだへなちょこだし、あのクソ無能極まった上司はまだブチ転がしてない。ああ、まだまだ色々。うん、まだ、俺、みんなに恩返ししてないのになあ。
 それに。

「俺が一から集めた、俺の掃除道具コレクション、全部このドアの向こうにあるんだよなあ」

 この世界にそんな一言を残して、俺はなんの抵抗もできず空間に呑み込まれた。
 俺は目蓋を伏して、諦めたように笑う。強がりだ。誰よりも俺が分かっている。でも、少しだけ、かつて俺の人生のきっかけを与えた友人のように、綺麗に笑えた気がした。



「で、目を開けたらこれですよ」

 俺は両手を頭のあたりまで上げながら、どう見ても日本人ではない彫の深いイケメンどもに銃と剣先を突きつけられよく分からない言語で喚かれているこの状況のあまりの理解できなさ具合に俺は早くも匙を投げた。

 あの亀裂に呑み込まれるという理解の範疇を超えた死の危険の次は身に覚えのない死の危険ときた。呑み込まれる前は確実に室内に居たはずなのに、何故俺は見たことも来たこともない外国の古き良き下町みたいな場所で外国のお巡りさんもどきに殺されそうになっているのか。謎が謎を呼んでこんがらがり過ぎだろう。なにこれ。

 取り敢えず形だけでも冷静になろうと俺の置かれている現状を箇条書きにしてみる。
 始まりは恐らく開かないドアから。その次に迫ってくる亀裂に呑み込まれて俺は意識を失い、目を覚ましたら知らない街に知らない人たちが俺を囲んでいる。←今ココ。
 そして何よりも重要なのは、

「くぇrちゅいおp@!!」

 言葉が全く通じないということだろう。
 おっかないお巡りさんさんに何か言われているのは分かる。しかし何を言っているのか全く分からないので何と答えていいのかも分からない。俺は何度も「もう一度言ってください」を知っている限りの言語で言ってみてはいるが、結果日本語は勿論何一つ通じないことしか分からなかった。こちらの言葉は伝わらない、相手の言葉も聞き取れない。異文化交流において最も絶望的な要素を兼ね揃えたのが今の俺である。

 お巡りさんに気づかれないように、緊張を少しでも解きほぐすため小さく息を吐いた。
 そして言い忘れていた、いや、あえて見て見ぬふりをしていたおっそろしい情報がもう一つある。俺を取り囲むお巡りさんやガヤガヤと野次馬している住人さんにちらほらと、本来人間に生えている場所じゃない頭に、どう見ても獣の耳が生えているのだ。
 この情報たちから俺が導き出した結論は、“ここは地球とはまた違う別の星、もしくは別の世界”なのではないだろうかという、何とも頭のおかしい着地点にたどり着いた訳だが。
 俺の頭はいつの間にこんな夢を見てしまうほどイカれてしまったのだろうか?

「くぁz1wsx#$%!」

 そして俺が現状の把握に努めている間、どうやらお巡りさん側では俺の対処のついて話がついたようである。
 俺の手首に俺が知っているのと比べると大分ゴツい手錠を掛けられ、お巡りさん二人に前と後ろに挟まれながらその場から連れ出された。嫌な予感しかしないがここで逃げ出しても更に駄目なことになるのだろうことは想像に難くない。

「俺、これからどうなるんだろう……」

 きっと、この世界で俺の声は誰にも届かない。

 俺を連行している彼らはお巡りさんというよりその風貌はどちらかというと軍人と言われた方がしっくりくる。厳つい顔つきにがっちりした体格、きっちり着こなした制服と威圧感を放つ彼らに一般の出の俺はどうしても萎縮してしまっていた。
 びくびくしながら大人しく着いて来る不審者(俺)にお巡りさんたちは少しだけ怪訝そうにしていたものの流石はプロと言うべきか彼らはすぐに表情を改めた。多分不審者にしてはあまりにも俺が怯えていたせいもあるだろう。それはもう仕様がない。むしろ害のない存在として放ってくれると助かるのだが、やはりいくらここが日本ではない場所だとしても戦闘慣れしていそうな彼らがそんな迂闊なことをするとはどうしても思えないので言葉にはしない。まあ言葉にしたところで通じないんですけど!

 十数分歩いてお巡りさんたちは急に足を止めた。どうやら目的地に着いたらしい。街の住人から送られる好奇の視線から逃れるために俯いていた顔をそろそろ上げる。そして目の前の光景に絶句した。
 大きな大きな木造の、いっそ小さな古城にさえ見える立派な建物。あまりにも大きくて、こんな歴史的建造物のような場所に連れてこられた意味が分からず俺は見事混乱する。踏み入るのを躊躇していたら、お巡りさんが急かすように俺の背中を軽くトン、と押した。
 しぶしぶ中に入ると思ったよりも随分沢山の人に溢れていて、その人たちも賑やかな居酒屋みたいな気軽な雰囲気で好き好きに酒を掲げて楽しんでいる様子が見て取れる。俺はこの建物の更に奥に連れて行かれるらしく、目の前のお巡りさんに着いて行きながら横目でその様子を眺める。興味本位で俺を見る人はいたけれどお巡りさんが数人と二言三言話したあとはその視線もなくなった。正直言葉が通じないとはこんなにも不便なのかと痛感しているところだ。俺自身に何が起こっているのか全く分からない。

 階段を二階ほど上がって、長い廊下の奥の奥へと進むと、遂に目的の場所へたどり着いたようだ。これから何が起こるかはさっぱり分からないが、まあ俺は死ななければ何でもいい。この時点で、状況はよく分からないけれど、それでもたった一つはっきりしていることがある。たった一つの、俺がこの世界で抱く覚悟。

――俺は、元の世界に、日本に、帰る。

 俺の目的は、ただそれだけである。

「v8うvw#」

 お巡りさんに促されて恐らくこの建物の中で一等豪華っぽい部屋の中に入る。何故一番豪華な部屋だと初見の俺が分かるのか。何故ならこの部屋だけあからさまに金が掛けられているっぽいからだ。俺が知らないだけで似たような部屋があるのかもしれないが今はどうでもいいだろう。
 ふっかふかのソファーに座らされ、お巡りさんは俺の後ろで立って監視体制に入った。しばらく誰も一言も喋らない静寂が部屋を包む。誰かを待っているらしいが俺はいつまで待てばいいのだろうか。自分が監視される空間というのはただただ居心地が悪い。
 でも、と考える。驚くことに不審者の俺に対して彼らの俺の扱いは悪くなかった。ふっかふかのソファーに俺を座らせるのもそう。わざわざこんな部屋に俺を招くのもそう。むしろ不審者という犯罪者に対する扱いは決して悪くない。悪くないからこそ怪しいのだ。

 そしてガチャリ、ととうとう決着の時間がやって来た。この部屋に新しく入ってきたのは後ろにいるお巡りさんよりもがっちりした体躯に、なんというか、少し小汚い印象の受ける笑顔の眩しいおっちゃんである。どかり、と俺の前のテーブルを挟んだ向こう側にあるソファーに豪快に座り「 hu ー」と言葉が通じないなりに分かるだらしない声が聞こえた。どうしてだろうこのおっちゃんほどこの部屋の内装に似合わない人はいないと思う。現にちらりと見えた後ろのお巡りさんのおっちゃんを見る目は非常に冷めた目をしていた。
 おっちゃんはそんなお巡りさんの視線をものともせず、おもむろに煙草に火をつけて咥えたあと不敵に笑みを浮かべて俺と向き合って何かを言う。

「“$%$えvぃえうskrd」

 やはり分からない。
 俺は眉をきゅっ、引き結んで力なく首を横に振ると、おっちゃんはやっぱりな、という表情をしたあと今度は自分の顔を指さしてゆっくりと口を動かした。

「 Serb 」

 さーぶ、とおっちゃんが言った音を拙く繰り返す。
 これは、サーブ、というのはこのおっちゃんの名前、なのだろうか。俺が名前を繰り返したときの嬉しそうな表情を見ると多分そうなのだろうな、と朧げながら理解する。
 おっちゃんの方も俺が理解できたことを察したらしく満足そうに大きく頷くと今度は俺の後ろに待機している二人のお巡りさんを順に指をさした。

「 Louis 」

「 Nick 」

 るいすとにっく。
 ルイス、と呼ばれた厳つめのいかにも真面目そうなお兄さんは名を呼んだおっちゃんに恭しく頭を下げる。対照的に、ニック、と呼ばれた男は俺を連行するときとはまるで別人のようににっこりと笑いながら軽く俺に手を振った。本当に真逆の対応である。
 え、どういうことなの今何が起こっているの。俺が連行された理由って街中で不審な行動(意識をなくしていた)からではなかったのだろうか。あれ気のせい? いや手錠を掛けられたしそんなことはないと思うんだけれど、え? 何でちょっと好意的に自己紹介されているんだろう……。

 すると何にも反応が返って来ない俺を不思議に思ったらしいおっちゃんが首を傾げて俺を指をさす。一瞬おっちゃんの行動が意味が理解できず数秒放心したけれど何とか気持ちを持ち直すことができた。これは、俺の自己紹介を期待されている……? いやまさか。うん? あれ? これ本当に俺の自己紹介待ち?
 おっちゃんだけでなく後ろのお巡りさんたちからじー、と真顔で見つめられる時間に耐え切れず俺は若干涙目で自分の名前を口にした。

「――南雲、夕紀(なぐも ゆうき)」

 おっちゃんが俺の名前を数回繰り返し言葉にしたあと納得したのかにこりと笑って俺に向かって手を差し伸べた。歓迎しているような、そんな柔らかな表情に訳が分からず戸惑っていると、背後でニックと呼ばれたフレンドリーな青年は俺に行動を促すように背中をトン、と軽く押す。それは俺がこの建物に入るときにもやられたもので、ああ、あれをやったのはこの人だったんだと思考の外でそう思った。あのときは怖くて後ろを振り向けなかったから分からなかったなあ、と現実逃避である。
 俺はおっちゃんの手を取った。
 ここでこの手を取らないと死ぬ気がしたからだ。



 そして俺がおっちゃん、もといサーブさんの手を取ってから三か月たった現在、見て分かる通り俺はまだ日本に帰れていない。三か月も無断で失踪してしまったらあの会社クビになっているだろうなあ、と頭の片隅で思う。会社も上司も非常に心からどうでもいいけれど、あの頭の弱い新人と残してきた清掃の仕事だけが心残りだ。はあ、と思い切り溜息を吐く。帰れる目途は立たないし、何より思ったよりもこの世界で順応して暮らせてしまっていっるせいで最近は危機感がなくなってきているのが原因だ。日本に帰りたいのは変わらない。変わらないん、だが。

「三か月で、随分馴染んだなあ」

 そう、俺はこの世界に馴染んでしまっていた。

「なあに、弱音吐いてんだお前」

 からから、と笑うのは三か月前俺を連行した二人のお巡りさんの片割れ、ニックである。
 どうやらこの世界の言語構造は日本語に酷似していたらしく単語さえ覚えれば日常会話の聞く、話すは簡単だった。まだ文字は読めないが読めるようになるまでこの世界に居座るつもりはないのでそれは問題ない。元々複数の言葉は話せていたし、自分で言うのもなんだが学習能力はいい方だ。コツさえ掴めば何とかなって、しまったのが悪かったのだろうか。いっそ知りたくない事実も知ってしまった感が凄い。

 どうやらこの世界は俺の予想通り異世界のようで、ここの世界の住人は魔法やら剣技やら銃やら魔物やら冒険者ギルドやら実に物騒でファンタジーな世界だった。まるでゲームのような世界観だが現実はあまりにも物騒だし治安が悪い。日本語的におかしいが現実は現実だった、の一言に尽きるだろう。
 何で俺がこんな物騒な世界に召喚されたのかサーブさんにも分からないらしいが、吹けば飛ぶような貧弱な俺を心配してサーブさんを筆頭に色んな人が協力してくれていることはありがたいのだが、その。

「いい加減俺に戦わさせるの本当止めてくれない?」

 サーブさんがこの街には手掛かりねえな! とか大分前に断定してしまってからは色んな人が俺を鍛えさせてこの街の外に冒険させようとしているのがありありと分かる。
 サーブさんはあの見た目から想像できないがこの世界全体においてとても社会的立ち位置の高い人間で、何より広く深い人脈を持っている発言力と人情に溢れる俺の知っている中で一番の良い人だった。部下に命令させて連行という名の建前で俺を保護し、この街で問題なく暮らせるまでに知識や身の振り方をこの三か月で叩き込んでくれた俺の恩人である。何でも元凄腕の冒険者だとかで今はその冒険者とやらをまとめるギルドの社長(ギルド長、と呼ばれているようだ)をやっているらしい。あまり細かいことは俺には理解できなかったけれど、ルイスさんやニックによるととても凄いことらしいのは分かった。理解させられた、が正しいけど。

 でも正直俺に戦えるような能力も体力も才能もないがどうやら俺は一つだけ魔法とやらのスキルがあるらしく、それを磨こうとこうやってニックやルイスさん、時には社長であるサーブさんが俺のところにやって来るの本当に止めて。因みに一番俺のところに来るのはサボりついでにやって来る職務怠慢の鏡のニックである。こいつだけは呼び捨てでいいと出会ってから二週間目で判断した。

「そんなこと言うなってー。お前のその珍しい“掃除特化型”をどうにか生かせる方法を一緒に考えようぜーってな」

「うっさい。俺はこれから仕事があるからまた今度な」

 永遠に来ないだろうけど。
 しかし日本人の遠回しな“いいえ”はどうやらニックには通じなかったようである。

「分かった! じゃあ明日暇なの分かっているから明日の昼からな!」

 何でお前は俺のスケジュールを知っているんだよ。

「んじゃあ、街のお掃除頑張れよー、ナグモウ―」

 あと言語の壁は大変屈辱ながらまだ完全には取り払われていなかったりする。
 俺の名前がナグモウだと浸透してしまっているので、誤解を解くべく言葉の猛勉強してきた成果を今日こそ発揮させるべきだろう。この世界で仮にでも暮らすためにギルドに登録してある俺の戸籍もナグモウであるが、登録を書き変えるのはとても面倒なことなのだと小耳には挟んだので実行してみる。戸籍情報など絶対間違えてはいけないものなのだから、余所者とはいえ在住しているのだしいくらなんでも直す羽目になるだろう。なんか中途半端に牛みたいなあだ名みたいで微妙に恥ずかしかったのでちょっとした反撃だ。

「ニック」

「あー?」

「俺の名前“ナグモウ”じゃあなくて“ナグモ”な」

「……あーー!!?」

 もうギルドにナグモウで登録したんだけどーーー!!? という悲壮な声を背にして俺は異世界に行っても変わらない仕事をするために足を進めた。
 ははっ、ざまあみろ。

 掃除というと世間的には力任せにゴシゴシと擦るイメージが強いらしい。新人が零した言葉が情報源だから正しいかは知らないが、掃除と全く関わってなかった新人が言うのだからあながち間違ってもいないのだろう。
 掃除というのは汚れを落とすということ。汚れは油。これだけでもう単純明快な正解が出ている。油を表面に押し出すことさえできればサッと拭い取るだけでいいのにそれをゴシゴシゴシゴシと、みんなは一の力だけでいいものを十の力でやってしまってるのだ。

「お疲れさまです、精が出ますね」

「ルイスさん」

 街の掃除をしていたらニックさんとツーカーであるルイスさんが話しかけて来た。俺は最初ルイスさんたちのことをお巡りさんと言ったが、正確には彼らはサーブさんの護衛隊の人間である。普段はぐるぐると街中を警備しながら市民の安全を守り、もしもの時には最前線へ送られる重要な役目を持つサーブさんに並ぶ偉い人たちだ。
 へらへらと軽薄そうなニックとは違いルイスさんは見ず知らずの俺をよく気に掛けてくれる優しい人だ。少し天然の気があるが、まあ真面目でもあるから上手く相殺されているのだろう。

「相変わらず、便利な能力ですね」

「え、いや。そんな。……そんな煽てたって冒険はしませんよ」

「ばれましたか」

 俺の能力である“掃除特化型”。格好よく聞こえるがただの掃除道具である。
 俺がこの世界に引き込まれるときに身に着けていた仕事道具が少し、すこーしだけ便利になっただけ。“痛まなくなった掃除用ブラシ”、“減らない掃除用万能洗剤”、“エプロン”、“掃除用ゴム手袋”……これが俺の能力の全てである。

 俺だってできることならこの街の外に出て、冒険でも何でもいいから日本に帰る方法を探したい。けど。
 けどさ!
 いくらなんでも掃除用具だけで冒険はできないだろう!
 掃除用具が痛まなくなったのと減らなくなっただけで俺自身は何も変わってないからね! 無理! すぐ死ぬ!

「でもですね」

「……はい」

 嫌な予感がする。

「今日から私と一緒にスライム退治ですって」

 ほら当たったあ!!



 スライム。
 あのスライムだ。
 たかがスライムと侮ってはいけない。あいつら中々死なない癖に妙に強い。
 ルイスさんが言うにはサーブさんがしびれを切らしてこれを機に俺を無理矢理冒険させようという魂胆らしい。ルイスさんにあれよあれよと担がれてやって来たのは街からちょっと外れた森の中、いつの間にかニックもいるし本当なんだこれ。

「ナグモだけでは心配ですから、私たちもナグモが帰れるまで一緒に行動しますよ」

「そーそ。俺もいるし、命の保証はするって! だから、」

「「 Let's  スライム退治」」

 それだけ告げて少し離れたところで談笑し始めたニックとルイスさん、俺をぐるりと囲む八匹のスライムと対峙するのは俺一人。
 一言物申すなら。

「こ、れだから! アンタらは嫌いなんだ!!!」

 本当この世界に来てから碌なことにならない。
 なけなしの慈悲で持たされた剣で突き刺しても突き刺しても死なない化け物相手に俺が勝てる訳ないだろう。

「ナグモウ、あ、違うか、ナグモー」

「あ !?」

「こわい」

「な、んだよ! 言いたいことあるならはやく!!」

 息切れして酸欠状態の俺に呑気に話しかけてくるニックが憎い。

「知ってると思うけどスライムの弱点は体内の核だから。透けてるから見えるだろー? それ狙えよ」

「狙って外れてんだろーが!! クソ!!」

 ああ、なんかもういいや、と投げやりに腰にかかった洗剤に手を掛ける。
 減らないのだし、目に入って少しでも動きが鈍くなればいいという算段だった。

「オラァ!!」

 スライム八匹目掛けて掃除用万能洗剤を惜しげもなくまき散らす。
 効くとは、思ってなかった。それは後ろで呑気に見守っている二人も同じだろう。
 だって洗剤だ。ずっとこれで掃除してきたんだ。ありがとう、万能洗剤。いや、違くて! 現実逃避は今いいんだよ! 要らないんだよ! なんで!?

「――え?」

 何でスライムが跡形もなく溶けてるんだ!? こんなことって本当にあるのか!?
 塩を掛けられたナメクジみたいに、お湯に溶かしたゼラチンみたいに。
 見事に溶けていた。
 嘘だろ……神はこんなときばっかり味方するのか……。

ピロリロリン!

 場にそぐわない電子音が鳴り響く。

《――南雲夕紀のレベルが一から三に上がりました。“ T 字モップ”が持ち物に増えました。“重曹”が持ち物に増えました》

《――地球・日本に帰れるまであと九十七レベル》

 ――その声を聞いて、俺は膝から崩れ落ちた。

「おい! ナグモ! どうした!?」

「ナグモ!? 何かスライムにやられましたか!?」

 二人の声が、遠くに聞こえる。
 どうやら二人にはあの声が聞こえていないらしい。

「あ、あはは、は」

 帰れるまで、あと九十七レベル?
 つまり、俺は百レベルにならないと帰れない?

「はは、は。はあ」

 一瞬の間。

「………………掃除しよ」


▼ 南雲夕紀 は すべてを あきらめた !

 あとやっぱり神はいない。

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