『ーー五日間降り続いていた雨が上がりました。久しぶりに空に海がかかるでしょう。』

 箱の中の女性は告げた。



 今時の高校生にしては珍しいガラパゴス携帯を開いて時刻を確認する。それが朝起きるときにする習慣の一つだ。ゼロナナマルマル、つまり午前七時を指す携帯の画面はひび割れていて見にくいことこの上ないが、長年使っているせいか愛着が湧いていて新しいのに変える気にはならない。侭ならないものだなあ、と他人事のように呟いて母親が朝食を作っているだろうリビングへ下りる。今日の朝はパンが良いなあ。

「あら、おはよう。今日は起きるの早いわねえ。久しぶりに晴れたからかしら」

 母親の手にはこんがりときつね色をしたトーストと我が家特製のふわふわスクランブルエッグの乗ったプレート。流石お母さん分かってる! と心の中で母親を崇めながら、我が家で長く使われていたせいでボロボロになった木製のテーブルに着いた。眠気の醒めない頭は内心の愉快さを顔に出さないけれども。
 むしゃむしゃと、行儀悪く朝食を食べていると不意にテレビのアナウンサーの声が届いた。そうか、今日は晴れか。五日ぶりかなあ。なんて言っていると、お母さんは呆れたように今さっき言ったじゃないと言った。残念、覚えていません。
 でも、そうか、晴れたか。だったら今日は久しぶりに、

「久しぶりに空に海がかかるわねえ」

 母親は何事もないように言葉を零した。


 空に海がかかる。
 それはこの街特有の異常性らしい。生まれた時からこうなのであまり気にしたこともなかったけれど、ついこの間テレビで特集が組まれていて初めて知ったくらいだ。ただ単に街が海になるだけなのに、それが異常だなんて。しかもこの街だけだなんて。ぶっちゃけ信じられなかった。
 期間は晴れの日の朝の六時から九時まで。その時だけ街は海に覆われる。何故か地上の人間が呼吸出来る不思議空間では当然のように魚は空を泳ぐし、なんなら鮫とかだっている。毎年一人は必ず噛まれて死にかけたりするのである意味恒例行事の一つだ。ちょっと普通の海と違うところがあるとすれば、人間から魚に触れられないってことぐらい。それがこの街に住む人たちの常識。
 しかしその中で例外的な特殊も存在する。魚に触れられる人間だっているのも知ってほしい。魚だって人に懐く。触れれば警戒心のない犬猫みたいに擦り寄ってくる子だっているのだ。案外可愛いぞ、あいつら。
 それが日常となると学校だって会社だって街が海になろうと普通にある。他のところじゃありえないらしいけど。というかパニック必須だって隣町のばっちゃが言ってた。因みに平日の今日は当然学校があって非常に面倒くさい。でも残念ながらサボれば世話焼きキメている幼馴染に引きずり出されるのでサボりはしない。それを分かってない幼馴染はわざわざ毎朝迎えに来ているのだが。正直面倒くさい。たらたらしているうちに時間は過ぎる。

「おらー。迎えに来たぞー藤崎いー! さっさと出てこいー!」

 ほら来た。

「残念でしたー速瀬ーこのやろー。まだ制服にさえも着替えていませんー。下着ですうー」

「てめえは恥も外聞もないのかー!? あとお前早くしないと遅刻するぞー!?」

「うるせえー世話キチー! ちょっと待っててー」

 お母さんからも女の子が大声でみっともないこと叫ばない! って怒られた。全部幼馴染の速瀬のせいである。ちょっぱや(死語)で学校の制服に着替えて下にかけて行く。おはよー、と気だるげに言ったら早く行くぞ、と自転車の荷台に乗せられた。それ違反じゃなかったっけ? そういう問題はこの海になっているときにはどうでも良いのだ。

「行くぞ、危ないから掴まってろよ」

「それ五年前から言ってる」

 まあ、そんなこんな。とある日常、とある海日和。事件、というか小さな不思議は唐突に起こった。常識人気取ってる幼馴染には胃が痛い事件だけれど、結果的に学校をサボることになる。不思議で、よく分からない、非常識な朝だけの話。雨上がりの備忘録を語っても良いかい?



「速瀬もさ、魚に触れるでしょ。昔はヤンチャに魚追いかけ回して虐めてたのになんでこんな“普通の人“のふりしてんのさ」

 魚を触れる例外的な特殊は何も一人とは言っていない。我が家でも兄弟はいるが触れるやつはいないし。父母も触れなかった。本当に特殊らしいけど、速瀬もこの特殊の一人だ。小さい頃速瀬は犬猫とかそういうのに構い過ぎて逆に嫌われるみたいな奴で、魚にも同じくくどいくらいに追いかけ回して虐めてたのに。速瀬は大人になるにつれて他人に言わなくなっていた。勝手に常識人ぶってるし、いや世話焼きキメているのは昔から変わらないのだけれども。最近学校で魚に触れるとか言っている変人扱い受けているせいか速瀬は過保護になっている気がするのだ。あ、原因そのせいかも。

「そんなもん、藤崎見てれば分かるって。僕はあんな変人扱いされながら指さされて笑われても平気な顔出来るほど心臓はオリハルコンじゃねえし」

「ちょっと待て。変人扱いされてるのは知っていたけど指さされて笑われてたのかよ」

「え……今更かよ……。この間同級が『お、あいつが噂のww』『さかなくんwいやさかなちゃんかな???www』とか言ってたけど」

「そいつら誰。絶対吊るす。あとさかなくんさんに失礼」

「だよなあー。あの人なら僕たちみたいに触れるかもしれねえしなー」

 あの人ならねー。そんな緩い会話を交わしながらの登校はいつも速い。なんたって速度が、速瀬だけに。自転車に人を乗せてペダルを漕ぐスピードは人外じみている。今流行りの漫画になんか似たようなのあったし向いてるんじゃないのかなー、なんて思うけれども速瀬は帰宅部。実際は体力は無に近いが何故だかこれだけは化け物だ。本当に意味が分からない。
 突然、通学路に影がかかる。あれ、今日は晴れのはずでは、と影の元凶を見上げる。え、と速瀬と声が被った。え、ええー。

「『空海の王』じゃねーかよお……!」

 あ、ありえねー! 速瀬が叫ぶ。空を優雅に泳いでいる元凶は、確かに本来ならそこにいる訳のないありえねー存在だった。
 くじら、クジラ、鯨。そう、あのくじら。この空にかかる海の王とかつてからの言い伝えである五メートルさえも超える大きさのくじらだ。もはや伝説とまで言われるほど、この街では幼い頃に一度は聴かされる御伽噺の王。数十年、もしかするとそれ以上前から姿を見せなかった伝説のくじらは、まさかの目の前に、いる。

「ありえねー……」

 それしかもはや言葉は出ない。
 くじらは御伽噺の中ではとても穏和な性格で人間に友好的である、ということが強く印象的に書かれていた。ずっとずうっと昔のことで記憶は靄がかっているけれど何十、何百と聴いて見てきたお話だからそれなりに覚えている。
 あれ、そういえばなんで思い出せなかったのだろう。あの頃の記憶が鮮明に溢れ出る。確か、あの御伽噺の内容は……。

「『ーー空の海にて、魚に触れられる二人の子供』」

「『ーー時が満ち、二人の子供の前に王が現れる』」

「『ーー王は言った』」


『彼方より、お前たちを待っていたよ。さあ、行こう、旅立ちだ』


 王は、言った。
 その矛先は確かにこちらに向けて。



 こ、こんなことは予想しておらなんだ……! お前誰だよといつもならばツッコむだろう人物は現在見事にフリーズしていた。その気持ちは十分過ぎるほど分かる。そうだよね、なんでだろうね。なんでくじらの背に跨って空の海を飛んでいるんだろうね。
 幻覚と言われてもおかしくはないくらいのありえなさに情報量が多すぎて頭がパーンッしそうだ。元から頭は然程良くない。こんなことならもっと勉強しとけば良かったなんて今更後の祭り。ああ、速瀬? 同じ高校通っているだけ頭の出来は察して欲しい。
 くそう、やはりここは一つ行動に移すしかないのか。

「どうしてこんなことをするんですか……?」

 ぐんぐんと、安定感を伴いながらくじらは車より遥かに速いスピードで進む。話は聞いていないようだった。まだくじらに捕まって十分も経ってないというのに、もう既に知らない街並みが広がっている。それでも海は変わらず空にかかっているから良く知る街の一部なのだろう。知らないけど。あと速瀬は漸くフリーズが解けたらしい。さっきからずっと、えっえっ、と繰り返している。こいつも頭の容量は少ないなあ。
 私たちの街へ招待するよ。それだけ言って学生を拉致ったくじらはそれ以来喋らない。せめて何か喋って、と思うものの質問には何一つ答えてくれなかった。ガラパゴス携帯の画面を開く。ゼロハチゼロゼロ、午前八時。拉致られてからおそよ十五分が経過していた。この時点で学校は遅刻確定であるため若干諦めている。

『さあ、お前たち、着いたよ。降りなさい、ここが私たちの街だ』

 思わず、嘘、と零すほど、目の前の光景はおおよそ現実とは思えなかった。きらきらと輝く海面に照らされて魅せるのは、まるであの御伽噺の世界にそっくりだ。

「は、速瀬ー。これ、ここここれ、夢だったりするかな」

「どっちかっつーとゆ、夢であって欲しい気持ちもあるんだよなあー、藤崎ー」

 ぎぎぎ、とお互いの頬を思い切り力一杯引っ張る。遠慮はしない。お互い目の前にある現実が現実味がなさすぎて確かめようと必死なのだ。
 
「『空海の竜宮城』にしか、見えないんだけど。ねえ、どう思います……?」

「見りゃー分かるわ……正直、現実味がなさ過ぎてどうとも言えねえよ……」

 歓迎するよ、と言わんばかりに魚がくるくると舞っている。言葉は話さないが案外表情豊かに感情を表す魚たちを見て悪い気は起きない。それは速瀬も同じらしく優しく微笑んでいた。ふうん、珍しいものを見た。パシャリ、とばきばきに割れた携帯で写真を撮る。止めろ! と携帯を奪われそうになったのは既に予測済みなので制服の内ポケットに避難させた。残念でしたー。

『さあ、おふざけは済んだかい? 行こう、海の時間はもう少ない』

 くじらはそう言って、何処かへと進み始めた。慌てて後ろを着いて行く。先ほどの速さを出せるのを見ると、どうやら此方の歩くスピードに合わせてくれているらしい。
 もういいや、なんて思考を投げ出して楽しもうかとも思ってしまう自分がいるのも確かだ。面白そうだし、こんな幻想的な世界が終わるのは海のかかる時間だけだと言うのなら、朝の数時間くらいくじらたちにあげてやってもいいかも知れない。
 楽観的。呑気で、気分屋。この状況で楽しめなければ損であるというものだろう。くじらは話すし、魚たちも陸の海の子と違って知能が高い。まるで不思議の国だ、と早瀬が言った。

「……随分懐かしいね、それ」

「おう。だから、僕はもうアリスとしてこの世界を楽しもうかと思うことにした」

「お前がアリスって玉かよ。高く見積もってもハリネズミだって」

「うるせえ、ハリネズミ可愛いだろうが」

「反応するところそこ??」

 現実を受け入れて楽しもう、と結論が出たところで『着いたよ』とタイミング良くくじらが歩みを止めた。
 そこにあるのは二つの椅子。わらわらと魚たちも集まりだす。

『其処にお座りなさい。お前たちに話したいことがあるんだ。ーー私の友の子孫であるお前たちに』

 お前たちが私たちを物語にするように、また私たちもお前たちのことを物語にするのだよ。優しい優しい居場所をくれたお前たちに、聴いてほしい、過去の話さ。
 くじらは、海空の王は、告げた。

『聴いてくれるかい?』



ーーくじらは語る。

『二人の人間がいました。自らを大人であると言うのに子供のような人間でした。二人の人間には同胞ではない友がいました。一匹の異端な“魚”です』

『魚は毎日のように二人の人間と遊びました。人間は大人になると仕事をしなければならないと言伝に聞いた魚は、二人に「お仕事はしなくても良いの?」と問うこともありましたが人間は「働きたくない」と言うだけでした。どうやら少し駄目な人間のようでした』

 ここで一緒に聞いていた魚たちが爆笑していた。あと人間の立場からすると、ていうか学生の立場からすると耳の痛い話だ。速瀬も少し気まずい顔をしてる。

『魚はこの日常が好きでした。永遠と、それこそ時が止まってしまえばいいとさえ思います。けれど異端の魚と人間は持ちうる時間が違うことを、魚は十分すぎるくらい知っていました。元々、異端過ぎて群れの同胞から迫害され追い出された身です。二人の人間が初めての友でした』

『じわじわと時間が二人を蝕んでいきます。その度に魚は夜に一人で泣きました。』

 うそ……早瀬泣いてる……。

『そのことに二人は気づいていたのでしょう。魚と出逢った頃よりもずっと老いた二人は、魚をある所に連れ出しました』

『ーーそれが後に海空の竜宮城と呼ばれる場所です。二人は言いました。「ここをお前みたいな奴らが集まる魚の楽園にしよう!」と。魚は泣きました。泣いて泣いて、表情のあまり変わらない顔で、それでもとびっきりの笑顔で笑いました』

『「歳食ってる癖にまだ子供なんだから」魚が言うと「うるせえ!まだまだ現役だぞ!」と言います。二人は時間が経っても二人のままでした。この時から魚が夜に泣くことはありませんでした』

『また時間が過ぎました。海の楽園は完成し魚と同じような同胞も少しずつ集まってきていました。二人は言います。「もしも私たちが死んでしまったら、お願いがあるんだ。私たちの子孫が、私たちと同じ力を持つ子孫が現れたときにお前が伝えてくれ。私たちの想いを引き継いでいってくれ」』

『そう言うと二人は息をしてませんでした。魚は泣きました。今までで一番の大声をあげて泣きました。魚は泣き虫なのです。魚は言います。「大丈夫。約束は必ず守るから。お前たちが創ってくれた此処の王になって、お前たちの子孫に必ず逢いに行くから。ーーだから、今だけ、泣かせて」』

『時間は数十年、数百年と流れます。魚は今も約束を守るために時間を待ちます。そして、二人の子孫に出逢ったら言うのです。王になった魚は言うのです。
「彼方より、お前たちを待っていたよ。さあ、行こう、旅立ちだ」』



 ぐすぐすと鼻をすする音が響いた。まるで御伽噺の続きを読んでいるようで、それなのに何故だか涙が溢れ出る。速瀬は顔もぐちゃぐちゃで、お互いの顔を見るとぷっ、と笑った。

『問うてもいいかい?』

 くじらは問うた。
 勿論答えは決まっている。

「はい!」

『……お前たちは良い子だね。やはり二人にそっくりだ』

『では問おう。この世界は好きかい?ーーこの、二人の創り上げたこの街は好きかい?』

 くじらは真剣だった。ずっとずっと待っていたのだろう。その時間と想いを思うと、中々答えを出せずにいた。
 確かに面倒だと思ったこともある。なんでこんな街にとか、なんでと文句は尽きないけれど。それでも、決して、この街が嫌いではなかった。魚は可愛いし、それに、この話を聴くことが出来たのは良いことだと思うから。

「……好きだよ。この街が大好きだ」

「ーー二人と同じような想いを抱くほどには、貴方達が、大好きなんだ」

「だから、ありがとう」

 二人でこっぱずかしい言葉をくじらの目を逸らさずに言う。そうするとくじらは柔らかく微笑んで『……ありがとう』と呟いた。

『その言葉を聞けたならば、私は満足だよ。約束は、守れたからね』

 あ、そういえば時間は、と思って携帯を開く。ゼロハチヨンゴ、八時四十五分。げえっ、と声に出た。そのせいか速瀬も覗き込んできて同じくげえっと声に出した。もう直ぐ、海空の時間が終わる。

『さて、もう終わりの時間が来る。さあ、また私の背中に乗りなさい。旅は終り、帰ろう』



 とんっ、とくじらの背中から降りる。街の時計塔を見るとゼロハチゴナナ、八時五十七分。ぎりぎり、と安心からかため息が溢れた。
 あ、と速瀬が声を漏らした。速瀬の見ている方を見るとくじらは何も言わずに帰ろうとしていた。いや、時間がないのはわかるけれども!

「お、おうさ、……くじら!!また貴方と逢えますか!?」

「そ、そうだよ何も言わずに帰りやがってー!よ、四人目の友だちに向かって挨拶もなしかー!?」

 くじらが驚いたように此方を振り返った。そしてじわじわとその顔が喜色に染まり、本当に幸せそうに笑った。

『友だちかあ。うん、うん! 大丈夫、お前たちが本当に私を必要とするとき、私は現れるから』

 そう言ってくじらは竜宮城に帰って行った。
 なんか、二時間くらいしか経っていないのに凄い濃い時間だった。

「なんか、凄かったな……」

「うん……」

「学校は、」

「サボろ」

「……おう。そうだな……サボろうか」

「帰ろ、家に」

「おう。ああ、母ちゃんになんて言うべきか……」

「はは。じゃあ、また明日の朝に逢おうか」


 そう、これが不思議で優しい、ある日の朝の話である。

 どうだい? とんでもなく素敵だろう?

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