(8)
窓に張られた玻璃は、けばけばしく緑の色をしていた。濃緑の膜を通すと、街は淀んだ池の底に沈んでいるかのように見えるし、屋根沿いに吊られた提灯はみな輪郭がぼやけていて、人魂か狐火のたぐいを連想させる。その奇妙な色は現実感を失わせた。
帳(とばり)はひかれていない。酔客のさわぐ声や猥雑な音曲もまた、耳を塞ぎ聴いているかの如くで、かろうじて高低が分かる程度だ。自分の聴覚が鈍くなっているのか、状況の所為なのかは、わからなかった。
狭い空間、天井は低く、古い木の床は歩くたびに軋む。粗末な寝台。窓際に置かれた卓と椅子がひとつずつ。真鍮製の小さな角灯は煤けていて、つくりも―――時間だって違うはずなのに、俺が連想したのは官舎で迎える、あの乾いた朝の景色だった。
ここへ入るなり、衣を脱ぐことを命じられ、彼もまた官服の上着を取り去った。丁重に扱われたものは剣鉈だけ、風呂など望むべくもない。
習慣で脱ぎ散らかされた衣袍を畳もうとしたら、衣に指が届くいとまもなく腕を掴まれた。
彫りの深い容貌は、しかし、無表情だった。そういえば周霖は憤りを面に出さないな、と思う。苛立ちや嘲り、無関心はよく見る。快の感情は汲み取りがたい。俺だけが、という訳ではなく、誰に対しても万遍なく同じような気がする。
単純に読み損なっているだけで、例えば今のような状況が、男にとっての怒り、なのかもしれない。感情が強く振り切れてしまえば、繋がりが薄くても同調のちからで伝わることはある筈なのに、その経験すらないというのは、
―――つくづく、霧の中で手を伸ばすような関係性だと、内心で自嘲した。
寝台に俺を引きずり上げた彼は、言葉で指図するのも億劫であるように、小ぶりの器を放る。されるがままにぼう、と眺めていたら、あまり清潔そうではない敷布へ座り込んだ脚の間、それは玩具みたいに転がった。
「…使え。自分で慣らせ」
「……」
花精の性感を無理矢理引きずり出す薬―――軟膏は、潤滑剤代わりとしても使う。
阿房膏(あぼうこう)と呼ばれるもので、女が持つ紅に似た器に入っている。楕円の陶器は貝を合わせたような仕様になっており、笑えないことに、連れ添う一対の鳥の絵が施されていた。
青春宮が近いからか、この焚琴路(ふんきんろ)の娼館や情宿には大概、阿房膏の備えがある。おそらく花精を伴う前提で用意されているのだろう。
基本的に、つがい同士であるのなら、阿房膏を用いる必要はない。性欲が薄く、自ら発情しない性質の花精が、唯一求める相手はつがった花護のみだから。敢えて使う場合は、より深い快感を得る目的か、俺のような雄の花精が手順を踏まずに男を受け入れるときくらいだ。
当然、否やは赦されてはいない。
仕方なく、均衡を崩せば床へ転がり落ちてしまうのではないか、というほどに端近に寄った。周霖ほどの体躯の持ち主が寝そべるには、この臥榻はいささか小さかったからだ。よほど、一度降りてしまったほうが良かったかもしれない。ところが、逃げるようなその姿勢が気に障ったらしく、再び腕を引かれ、男の上で身体を慣らす羽目になった。
相手の鼻先に尻を突き出す格好は躊躇われて、視線を感じつつ周霖と正面から向かい合う。
乳白色の膏薬を手に乗せれば、膚の温かさが移って次第に柔らかくなる。そうして、四つん這いになると、背中を丸め、右の手を後ろへ伸ばした。そろそろと会陰へと指を滑らせる。
「―――う、んっ…」
入り口は固く窄まっていて、爪の先を入れるだけでも強い圧迫感があった。皺を伸ばすように円を描き、阿房膏を塗り込む。中心に向かって凹む周囲を押し、馴染ませたあとで、指先をさらに深く潜らせる。締まるそこへ関節二つめまでを侵入させると、口が勝手に開いて、俺は喘いだ。
周霖に教えられて、一連の作業はすっかり覚えてしまった。…楽かどうかは、また別の話だけれど。
両の太ももを震わせ、呼吸を荒くしながら俯くと、顎を掴んで上向かせられた。途端、凍てついた視線とかち合う。俗に言う閨房の雰囲気とほど遠いことくらい、経験の浅い自分にも分かっていた。
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