(5)
特に視線を戻すことはなく、それだけを言うと、万廻は小さく息を呑んだ。
責められるとでも、危惧していたのだろうか。
「俺がひとの生き方を解することはできない。ひとではないし、花精としても幼いから。ただ、どんなときでも…周霖は苦しそうだ」少し迷ってから、言葉を継ぎ足す。「…俺にはそれが、ひどくつらい」
「…伎良」
近頃、考えるのは、かつての柳の花護、姶濱(あいびん)のこと、それから唐桃精であった信陽(しんよう)のことだ。
煌々はずっと前から、周霖から花精を引き離す方法を模索していた。信陽に同じ提案をしたとき、怒った彼女は俺と同じ行動に出たそうだ。もっとも、無様に反撃されるようなことはなかったみたいだけれど。
自分はしあわせだった、と姶濱は言った。置いて逝く俺を安心させるための台詞だったのか、本心からの言葉だったのか、例え、尋ねる機会があったとしても老花護はきっと教えてはくれない。自分でお考えなさい。そう返されることだけは想像がつく。
周霖は。彼は、しあわせになりたいなんて、思ってはいないかもしれない。だが、万廻の話を聞いて、己の役割を改めて確かめることができた。
袖口に目を遣る。―――いつか、灰青の衣を着ずとも済む柳が、必ず。
「たぶん、俺はもう長くはないだろうから。…だから、いのちの使い方を考えた」
「いのちの…使い方?」面食らったように山犬が聞き返した。「…どういう意味だ」
「周霖に娶されて、…胎宮でも、それまでの花精たちの顛末は聴いていたから。どうせ枯れてしまうのなら、なるべく長く生きて、次の柳の負担を少しでも延ばそうと思っていたんだ」
でも、そうじゃなくて。
俺ができるだけ周霖といて、彼ののぞみに近付くことが出来たら、その記憶を継承すればいい。そうすれば、次の柳花精は俺よりも数歩進んだところから、彼との関係をはじめることができるのではないか。もしその柳が枯れても次が。また、その次の柳花精が、と続けていくことができたら、いつかは周霖のとなりで、彼を理解した柳が立つことができるのではないか。それはきっと、俺たちが花精だから―――花精しかできない、やりかたなんだ。
万廻に話しておこう、と思ったのは、煌々の”心遣い”を牽制するためじゃなかった。俺には俺の目算があって、山吹精が謀を実行すれば、すべて水泡に帰してしまうのは事実だけれど。
むしろ、敵ばかりの青春宮の中で、自分のつがいと己を似ている、と言い、少しでも歩み寄ろうと思っていてくれた者がいたことが、嬉しい。
「お前は、…あいつを諦めていないんだな」
「諦める?」
そういうことは考えたこともなかった。いささかびっくりしながら花護を見上げると、彼は足を止め、あの榛色の双眸で静かに俺を見下ろしていた。
「なぜ、群青(むらさを)さまがあいつと、伎良を引き合わせたのか、…ようやく得心がいった」
「……」
庭師の業は花精やひとの理解を超えたところにある。得心もなにも、と思う。ただ、そう反駁するのは躊躇われて、俺はまたしても黙ってしまった。ひとまず、歩みを再開させる。大柄な影はやや遅れて付いてきた。話はまだ、終わっていないのだろうか。
官舎へ戻る前に周霖のための食べ物を購ってこようか、などと、余所事に捕らわれつつ回廊を出る。青春宮正門へ抜ける扉の前で、大きな掌が俺の肩に掛かった。
「…なんだ?」
「今、煌々から連絡があった。周霖が執務室に寄ったらしい」
「周霖が?」
なぜ、というのは―――おかしいな。
本来は登庁して、務めに励むのが義務なのだから。しかし、昨晩は帰ってこなかったし、今日も山吹の部屋に訪いはなかった。出先から煬大夫に呼び出されでもしていたのだろうか。あり得る話だ。
「いずれここに来る。待っていろ。戻りがてらお前の居場所は伝えておく」
言って、万廻は不意に俺の手首をとった。
本調子じゃないのと、あまりに素早い行動だったのでされるがままになってしまう。彼は長い鼻面の前に俺の五指を持ち上げ、その爪先までまじまじと確かめた。申し訳ないが、外形の所為でとって喰われそうな気分に陥る。
「…さきほどから不思議だったのだが。なんだ、この青いのは。爪紅ではなかろうし、煌々も気にしていたぞ」
鋭い嗅覚を持ってしても、染料とまでは思い当たらない様子だった。それはそうか。花精は文化を持たない生き物だから、絵具や顔料のたぐいは門外漢だしな。
しかし説明するのもややこしい。考えるのに要した時間は、ほんの僅かだった。
「いつかなくなる」
そう言った俺に、万廻は何を追及することもなく、ただ、唸る獣のように面を歪めた。
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