(18)



錆びた蝶番の戸を開けても、金盥に水を張っても、花護に起きる様子はなかった。俯せになった男の隆起した筋肉から、薄い掛布がずり落ちている。随分とひどく寝返りを打ったのか、俺が抜け出した時分から、寝台はさらに乱れていた。
眠ってはいるけれど、満足な睡眠ではないのかもしれない。酒のたぐいを頼んだ気配も見当たらなかった。どうやら、少し魘されているみたいだ。身仕舞いが済んだら起こすべきか、と迷う。

景陵に留まることは、そこまでの負荷を彼に強いているのだろうか。狩りに赴いている時は、仮眠程度だし、そもそも、俺が衰弱しきっていて彼の按配をはかれるような状態じゃないから、周霖がきちんと眠れているのかどうか、知らないのだ。

「……」

今更ながらの事実に卒然となった。
聞いたところで無視をされるのが関の山だ。つがってからこちら、互いのことで、まともな会話が成立した記憶はない。姶濱との関わりを参考にしようにも、人間が違うし、相手が俺をそうした対象、すなわち比翼連理として見ていないから難しそうだ。
つがいから歩み寄るつもりがない限り、平行線―――だとしても、歯がゆい。


横たわった彼を視界の端に納めながら、そんなことをつらつらと考えた。
一方で手はひたすら己の裸身を清める作業を続ける。着物を脱いで、湿らせた手巾で身体を拭う。噛み痕からはやはり新たな血が滲んでいて、襦袢に重ねた単衣にまで到っていた。また袖を通す気にはなれなくて、椅子の背へと掛ける。抜け殻になった衣のほうが、よほどに存在感を持っている。
何もしないよりかはましか、と、髪にも手巾を滑らせた。胎の奥は残った精を吸収しつつある。雌雄の別なく、花精のからだはそうできている。不随意の痙攣はようやく治まっていたから、ぐっと息を飲み込んで、もう一度入り口を清めた。それでもう、終わりだ。

喧噪や、調子外れな歌声が時を忘れたかのように焚琴路の夜を賑やかしている。部屋の中は俺の出入りで扉が開いたくらいだったから、あの女―――褒似の示唆した、事後の臭いもまた、充満しているのだろう、と思う。感覚に頼ることはどうしたって判然としない。
今夜はきっとここで泊まって、朝が来たら都察院へ行く。もしかしたら、花護は焚琴路で二日目を過ごすかもしれない。街には男の友人が溜まり場にしている空き宿がある。幾度かつがいを探しに行ったこともあるけれど、花精にとっておよそ歓迎できた場所じゃない。またあそこか、と思うと、自然、肩を落としてしまった。


万廻に啖呵を切ったにもかかわらず、結局は同じ事の繰り返しだ。…どうすればもっと、周霖の近くに行けるのだろうか。

「一度口にしたものはもう、戻せない、か」

確かに褒似の言うとおりだ。戻すつもりもないけれど。

試みに男の隣に立つ花精を思い浮かべてみる。
理力に満ち、強健な身体を持ち、周霖を「満足」させることのできる柳花精。彼もしくは彼女は過不足なく、花護ののぞみを理解している。まったく、俺とはほど遠いな。
しかも、何故か、そんな万能とも言える花精が彼のお眼鏡に適っている、と即断できない。
どうして、だろう。俺じゃない花精を正当なつがいとすることは、俺自身の存在意義を真っ向から否定することに繋がるから。大方、そんなこところだろう。

(「…補正が掛かっている」)

花精は自傷しない。自らをあやめることはできない。ほぼすべての動植物ができないのと同じように。近い行動をとるとしたら、次代にいのちを繋げるときくらいだ。もし、望んで自害をする花精がいたら、それは最早、花精ではないか―――「狂っている」。
己の死を前提とする想像ができない。ならば、死ではないのだ、と自身に言い聞かせるだけだ。

そうして、改めて、考えてみる。
周霖を理解している強い柳。例えば、煌々や阿僧祇のような。思わず、握りしめた手巾から水が垂れ、床をさらに濡らした。また溜息が零れる。



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