(17)



途端、黙り込んだ彼女に僅かな罪悪感を得る。
飾窓において「煙間」は決して低い位ではない。楼の中で、専用に宛がわれた部屋を持つ者も多い。にも関わらず、己の見世ではない、ただ房事だけを目的とした連れ込み宿で夜明かしとは、奇妙な話だった。まず、事情あってのことだ。
辻や路地で一人、客を探す「立ちん坊」とは立場が異なる。さすがに休みを取って時間を作っているのだろうが、籍を置いている見世に露見したら、ただでは済まされないだろうに。

名前をわざわざ教えてくれたのは、俺を安心させるためか、同業と見越しての気安さがあってか。
姶濱とつがっていた時、警邏(けいら)の任で色街を回ることも多々あった。花精にとっては縁遠い場所だが、俺にしてみれば知らないわけでもない。―――まして、周霖の花精になってからは。

「…すまない」

小さく謝罪を呟くと、褒似は、その硬い表情のままじっとしていた。

「貴女のことを探るつもりはない。…忠告のとおり、焚琴路にも、しばらくは来ないだろう」

たぶん。確証はないけれども。

「迷惑を掛けた。…ここは片付けて行くから、貴女は行ってくれ」
「……」

少しの間、無言でいた女は、ぱっと身を翻して、もう一度薄闇の中へ戻っていった。
ほどなく現れた彼女の手には、調理台の上で鎮座していた水差しが提げられている。

「そのうつわ」廊下に転がったままの水差しを示す。「そっち、あたしが貰う。だからこれを持って行きなよ」

呆けて見返す俺に、先ほどとは打って変わって、ぽんぽんと景気よく言う。

「…なに、ぽかんとしちゃって。そのきれいなみどりの目ン玉が落ちちまうよ」
「しかし、…いいのか」
「変に突っ込んで聞いたのはあたしのほう。答える義理はさ、あんたにはないわけで。確かに臑に傷持つ身なのはお互い様だ」

でも、あんまりひどいからさ、と続けられた台詞の、指すものを、単衣の上から押さえる。襦袢には既に、血が滲んでいるかもしれない。

「番台の親父は知り合いだから、始末は気にしないで。いっそ、水差しも持って行って貰う?奥で酒引っかけてるのが大概だから、使いもんにならないかもしれないけどさ」
「…いや、それは大丈夫だ」
「もう一度台所に行って、水甕に頭から突っ込まれても困るし。…持てるかい」
「…ああ」

それでも危なっかしいと判断したのか、濡れた膝の先に水差しを置かれる。
黙礼をして「ありがとう」と言うと、女は奇妙に歪んだ笑い方をした。

「…男の臭いがするね」
「……」
「あたしらにとっては馴染んだ臭いだから、すぐに分かる。はじめはあんた自身のもんかと思ったけど、…そうじゃないみたいだ」

思わず、剥き出しになった腕あたりを嗅いでみたけれど、彼女の言う、おそらくは、精の臭いも、水の冷たさ同様に感じられなかった。見つけたのは裏側の噛み痕だけだ。
掌の表と裏とをふらふら返す。指先の藍、手首の圧迫されたしるし、骨張ったところを避けて、柔らかな部位を狙って付けられた疵。

「犬みたいに鼻を利かせなくても平気だよ。馬鹿にしてるわけじゃないんだから」

そんな動作に何を思ったのか、褒似は窘めるみたいに話しかけてきた。

「白粉は…、いや、練香のほうがいいかもね。しばらくは身体を洗っても付いて回る気がするから、うんと強い香りのを買って使いな」
「…憶えておく」
「いいお返事だ」

さしのべられた手を、少し迷ってから掴む。もう一方の手には譲られた水差しを。ほっそりとした肉付きとは裏腹に、意外なほどの力強さで助け起こされた。
水甕の前で彼女とすれ違ったとき、鼻を掠めた化粧と酒精の香りは、もう分からなくなっていた。発作、と己で喩えた文句が思い浮かぶ。正常と異常の境を、行ったり来たりしているのだ。
立って向かい合うと、ふたりとも、膝から下が川遊びをしたみたいに濡れていた。この様子では単衣も使えない。裸にいきなり官服を纏うことを考えると、気分が滅入る。
俺はともかくとして、彼女が何か、替えを持っていればいいのだが。

壁へ手を添え、支えを作ったのを見届けてから褒似は嘆息した。

「…あんたみたいな育ちの良さそうな坊ちゃんが飾窓をやるだなんて、庭の一たる春苑もまったく知れたもんだよ」
「……」

誤りを正さないのは嘘、ではない。婉曲的な逃げ方で俺は、女の言葉に否やをしなかった。
代わりに尋ねたのは、もっと別のこと。

「貴女の名を、忘れたほうがいいか」
「…えっ」

花精として言うのなら、「思い出さないほうがいいか」とすべきか。忘却は我々の業ではない。

「都合がよくないだろう。…吹聴するつもりもないが」
「…一度、口に出しちまったことは、もう戻せないもんさ」ややあってから、褒似は答えた。「名乗ったのも、あたしの勝手」
「…そうか」
「じゃあさ、代わりと言っちゃあなんだけど。…名前くらい、聞いておこうかね」
「那伎(なぎ)」と俺は告げた。「那伎、という」

紅を失った口脣に、女はその名を転がした。

「よく似合ってる。誰が付けてくれたの?」
「…もう、亡くしたひとだ」
「そっか。…ま、そんなもんだよね」

是も否もなく見返していると、この短い邂逅の間で、褒似ははじめて、穏やかに微笑んだ。


「それじゃ、那伎。…もう二度と会わないといいね」


こちらの反応を待たずに、彼女はくるりときびすを返す。そして、水差しを拾って台所へと引っ込んでいった。じきに柄杓が水を打つ音が深々と聞こえてくる。

細いが、しっかりとした後ろ姿を見送りながら、俺は何年ぶりかに呼ばれた響きを反芻していた。それは、かつての柳の花護と番っていた時分、身を秘する必要があった際に、与えられていた名前だった。



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