(16)
琺瑯特有の、がらん、という虚けた音が響く。満々と入っていた水はもれなくぶちまけられて、溜まりになった。地面へとついた掌が濡れる。膝頭も、衣の端も。
倒れた水差しからごぼごぼと新たな波が生まれ、しまいには俺の顔が映り込むくらいの量が失われてしまった。呼吸がまた、苦しい。まるで発作だ。
喘鳴に喉を震わせながら、まずい、と思う。倒れ込んだ衝撃に、腫れたあわいがひくついて、新たな情欲の痕が漏れ出ているからだ。一度、痙攣が始まると、からだの統制はもろくも崩れた。尻から太股を滑って膝の裏が湿る。懐の手巾ですぐにでも拭いたかったが、こんな所で裾をからげるわけにはいかない。部屋まで我慢するべきだろう。
仕方なく、拳を作り、奥歯を軋るほどに噛みしめ、吐き出されたものが落ち着くのを待つ。襦袢は間違いなく汚れたけれど、そもそも、抱かれてそのままの身体で来てしまったのだ。今更か。
懸念要因はまだある。冷たい筈の水の温度が全く感じられない。身体を支えるためについた手の、水かきあたりまでを浸しているというのに。
例の『予兆』が再び、脳裏を過ぎった。そして、煌々と諍いを起こしたときのことも思い出す。
なけなしの理力を摂り貯めたところで、やはり、俺が花精であり得ている境界は不確かなものなのだ。
(「当然だな」)
別に理のちからを分け与えるために、身体を繋げているわけじゃないんだ―――周霖は。
四つん這いになったまま目眩をやり過ごしていると、慌てたような足音が迫ってきた。すぐに、かがみ込んだ影が肩を揺さぶってくる。
あの、女だった。彼女の着込んだ赤い襦袢と、その上に重ねられた水煙柄の単衣が仲良く水溜まりに着地したのが見えた。
「…やっぱり、按配が悪いんじゃないか」
低い声音には、分かりやすく気遣わしげな色が浮かんでいる。
顔を俯けた俺は口の端を緩めた。あんなに憎たらしそうに悪態と吐いていたくせに、奇妙な女だ。人間の思考構造はたぶん、俺には難しい。煌々くらい年を経ていれば、少しは分かるのかもしれない。
いたわる手つきで背中をさすられる。丸めたそこを、幾度も、幾度も。
「…だいじょうぶ、だ…。少し、…待ってくれ。あまり揺らされると、」
「あっ、ごめん」
言って、女はぱっと手を離す。かろうじて敷居を超えていた俺は、それで、上体を起こした。木の床だったからこの程度だが、台所で顔面から転んでいたなら結構な惨状だったろう。廊下を水浸しにしている今も、あまり歓迎できた状況ではないのだが。雑巾をどこかで調達しなければならないだろう。台所か、番台か。うまく考えが纏まらない。
「…立てるかい?派手にすっころんでたけどさ」
崩れた膝立ちになって、ほぼ同じ目線でしゃがみ込んだままの女へゆるゆると首を向ける。彼女は相変わらず、心配そうにこちらを見ていた。その吊り気味の双眸が、俺の乱れた襟元を映して驚愕を露わにする。即座に単衣の、帯の下あたりを引いて衣を正したが、眼差しは同じ場所から動かない。
女が驚いた理由は、はたしてどちらだろうか。…一方で、口を突いて出た言葉は、疑問と全く関係のない内容だった。
「…着物が濡れる」
「えっ」
「貴女のだ」
水溜まりに接したところから、女の衣の色がどんどんと濃くなっている。さぞかし気色の悪いことだろう。顎で以て示すと、彼女は薄い口脣の端に細かな皺を寄せて、くっと笑った。
「こんなの、今更汚れようが濡れようが、どうってことはないさね」
「……」
「変なことを言うひとだよ」そして、波紋の中に揺れる手の影を見下ろし、「染物屋の若旦那か、番頭かと思ったけれども」
「…違う」
「そうだね」と彼女は認めた。「あんたの手は、お大尽方のとは違う」
否定をしながら、よく観察しているな、と思った。手燭程度の灯りで、水差しを持つ指―――官服を染め直すため、藍に染まった指を目聡く見つけていたのだ。高圧的な態度にも得心がいく。やはり、女を抱きに来た廓客だと判じていたらしい。
同時に、人間だと信じ込んでいることも明らかになった。ならば、そのほうがいいだろう。花精と知ったところで、お互いに益にはなるまい。
女が気付いたのは花紋ではなく、周霖が肩口に刻んだ疵であり、棒切れの同然の加減のなさで掴んだ手首の痕だ。行為の最中、うなじのあたりから、花紋を通り、鎖骨、肩と鋭く歯を立てられた。首輪を失ってから、花護は殊更にそこを痛めつけている。…まるで俺の過失を責めるかのように。
「あたしはね、金瀾楼(きんらんろう)で煙間(えんかん)を張ってる褒似(ほうじ)って言うんだ。…あんたは、どこの見世だい?この辺りで男の飾窓を置いているのは、弛水楼(しすいろう)くらいのものだが」
「どこの見世でもない」
「…立ちん坊をしているの?この、焚琴路で?」
女―――褒似は面食らったように言うと、「やめておきなよ」と俺の肩を掴んだ。そのまま立たせようとするので、首を振る。
「…少し―――待ってくれ。目眩がひどいんだ。じきに落ち着く」
「…だけど、ばれたら大変だよ。焚琴路で飾窓をやるには御上のお許しが要る。そうでなくても、見世の縄張りがあるんだ。何を思い詰めて、そんなことしてるのかは知らないけどさあ…」
「貴女とて、…似たようなものだろう。見世に属している、まして御役持ちの飾窓が、こんな所にいるのは、それこそ、おかしなことだ」
[*前] | [次#]
◇PN一覧
◇main