(15)



水差しはあったけれど、中身は空っぽ。底を覗き込んでひとつ溜息をする。杯すらないなんて、注ぎ口から直接飲むしか術はないじゃないか。
仕方なく琺瑯らしき器を手に、もう片方の手は壁に添えて廊下を進む。

思い出したように点々と浮かぶ灯りを頼りにしながら、階段を降りて水場へ向かった。其処此処の戸の裏から、くぐもってはいるものの、明らか情交のそれと分かる声が漏れ聞こえる。扉や壁の薄さを改めて思い知らされる気分だった。もっとも、他人の耳に入ったところで、みな同じ目的で来ているのだから、笑う者はいないだろう。
次第にひんやりとした気配があって、案の定、地面が剥き出しになった台所に着く。
ぽっかり開いた空間に、手燭を持ってこなかったことを後悔しかけたが、誰かが置いたのか、調理台とおぼしき四角い影の上に、ぼう、と蝋燭が点っている。

(「…助かった」)

井戸があれば軽く身体を拭けたけれど、贅沢は言えまい。
硬い土へ履(くつ)を下ろしながらあたりを見回す。小さな壺やら麻袋、鍋、薬缶などが雑然と並べられた棚。火のない竈。蝋燭の乗った調理台。大きな甕。

それから、女。

長い髪をおざなりに結った単衣姿の女が腰を折っている。こちらに気付いていないらしく、白い手はゆっくりと柄杓を取り上げ、うつわへと水を注いでいる。
幾度か動作を繰り返したのち、用は終わったとばかりに甕に蓋を被せようとしたので、敢えて履の底で砂利を擦った。華奢な肩がびくりと揺れる。

「だ、誰ッ!」

驚かせてしまったらしく、女は鋭く誰何をした。突っ立った俺が水差しをぶら下げているのを見、深々と息を吐く。

「…なんだい、驚かせるんじゃないよ。かかしみたいにぼんやり立ちやがって」
「…貴女の用が済んだのなら、場所を譲って欲しい」

三十くらいの年の頃だろうか。
事を終えた後なのか、だるそうな所作だ。首根に残る白粉と、眦に刷かれた僅かな色を除き化粧はほぼ落ちている。それでも、胸や尻あたりの肉置きは豊かで、腰はなよやかだった。
蝋燭のひかりが届くところまで、現れ出でた容貌は、やつれてはいたが、整っている。瓜実に似た輪郭に、涼しげな一重の目を持った女だ。訝しそうに俺を睨んで、鼻を鳴らす。

「随分とまあ、ご丁寧な口をききなさるねえ、旦那。ここは、あんたみたいなひとが来るような場所とは違うように思うが」
「…気分を損ねるつもりはなかった」

構わず、俺も歩みを進める。すると、女は視線を外さぬまま脇へとずれた。すれ違いに、むせかえる香に混じって、ふわ、と酒精の匂いが掠めた。感覚が鈍くなった俺が分かるのだから、かなりの深酒だ。
それゆえに絡んで来たのかもしれないが、…何にしても彼女の癇に障ってしまったようだ。
目の前の男が花精だとは、露程にも思っていない様子である。おそらく、女連れでしけこんだ客だ、と踏んでいるのだろう。彼女の身分の詳細は俺とてわからない。情人に伴われて来たのか、身をひさぎ銭を得る飾窓(しょくそう)なのか。どちらであっても、関わりのないことだ。当て推量すら無駄に思う。

水を使わせない、というつもりは流石にないらしい。柄杓を手に取り、女と同じように甕の中へ入れても、特に咎め立てはなかった。有り難く、汲ませてもらう。
立ち去るかと思ったが、奇妙なことに背後の気配は止まったままだ。眺められたところで、のろのろと水差しを持ち上げるくらいのことしか披露できないのだが。

(「…重い」)

器の縁までたっぷり水を入れると、その重さがずしりと堪えた。危うく袖を濡らしてしまいそうになる。たかが水汲みに労を感じるとは、信じられないくらいの衰えぶりだ。
こぼさずに部屋まで戻れるだろうか。

「…ねえ、旦那」

甕に蓋をして、大袈裟ではなく一仕事を終えると、待ってましたとばかりに、話しかけられた。顔を上げれば、先ほどの女が立っていた。水差しを台へ預け、腰に手をあてがって、ちらちらと白目を光らせている。

「ちょいと言わせていただきたいんですけどね、女を連れ込むなら、もっとまともな所にしたらどうだい」
「…」
「喋らなくても分かるよ。あんた、こんな場末にご縁のないような、そこそこの出なんだろ。えぇ?」

縁がない、か否かは難しいところだな。脳裏に阿房膏のうつわの柄がふっと浮かんだ。…連れ添う、一対の鳥の絵。

「上つ方々の高尚なご趣味ってやつなのかい。それとも…、」

腹立たしげな口調は、唐突に歯切れが悪くなった。

「…ずいぶんと、顔の色が悪いみたいだけどさ。やたらとふらついているし。まさか、労咳とか、変な病じゃないだろうね」
「病には、掛かっていない」と、淡々と言い返す。「貴女に何かを及ぼすものでもない」
「ふん、そうでございますか、ってんだ」
「……」
「疫病(えやみ)持ちみたいなざまでも女を抱きたいなんて、…如何にも人畜無害です、って面構えだけど、…男ってのは、やっぱりそういうもんなんだねえ」

尚も胡乱な眼差しを向けられてはいたが、付き合う理由はないので捨て置くことにした。

廊下を目指して進む途中、またしても立ち眩みに襲われる。うんざりするほど馴染んでしまった、傾斜する視界。あっ、と女が悲鳴を上げた。

「…ッ!」

足を踏ん張って持ち堪えようとして―――失敗した。力が入る場所なんて、身体のどこを探してもひとかけらだって残ってはいない。むしろ、支えに使った膝から、あっさりくずおれた。




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