(3)



文観は未熟な恬子の懇願を受けて、満身創痍であった伎良の治療に助力していた。
いくら碩舎時代の教え子と言っても、自分など数多居る凡夫のひとり。敢えて気に掛けるような優秀な生徒でもない。所属の勤めと外れた行いであったのに、老師が承諾してくれたのには理由があるのです。かつて、医女がそう零したのを聞いたことがある。

文観が専らとしているのは、花精の研究。
―――個の死という概念をもたない、花精の、いのちに関わる研究。



「その、文観さま。俺も来いとは言われましたが、細かい説明を全く聞いていないんですがね…」

突き刺さる視線――疑うべくもない、すぐ横からだ――を全身に受けながら、国房は必死に言い募った。
案じる恬子の気持ちはよく分かる。話が全く見えない。この状況で、何が起こるのか想像もつかなかった。しかし厭な予感だけはする。そして国房の悪い予想は大概的中する。
思った以上に小さな声になってしまった反論を、文観は片眉を器用に上げて聴いた。直に、頷く。

「そら、まあ、そうだったなあ。お前さんらにはまだ話さなんだなあ」と、したり、とばかりに茶筅結いした後ろ頭を叩いている。
「部屋を借りる都合で花喰いには言ったんだが、…ま、いわゆる麻酔ってやつだ」
「…ますい」

耳慣れない単語を、繰り返す。麻酔。人間の治療で使われるそれならば、自分も知ってはいるが、花精に麻酔、とは。

「国房よ、お前さんに頼んで取り寄せて貰った、あの飛蝗蟲の、翅(はね)の粉末な。あいつを加工すると、花精に効果のある眠り薬が作れるんだよ。その効きぶりをちょっとばかし試してみたくてな」
「はあ」

どうでもいいから間の抜けた返事をした訳ではない。どだい、考えも付かない話だったのだ。

花精は「個の死」をもたない存在である、とされている。
今の代が枯れても、記憶を同一とした、名と顔の違う―――心すらも変えた次の代が必ず生まれる。
よって、病や怪我に対する研究が人間ほどには進んでいない。同等に近いちからを持った替えが保証されているのだから、不必要であると、そう断じられている。
また、花護に比肩するほどに強く、寿命も長い彼らが、万が一にも掛かる病は死病が多いという。
たとえば伎良や、周霖のつがいたちが陥ったような、理力の欠乏や人のかたちを取れなくなる、ということは本来あり得ない事象である。また蟲に喰われることも除外される。これらは確かに花精にとっては致命的だが、病ではないからだ。
花精のいのちを真に奪うのは、全身が琥珀のように凝固する病気や、斑が浮いて水分が失われていく病。みな、個の死に伴って発生する、避けがたいものだとされる。
だから治療をする、とか、延命を試みるという思考がない。彼、あるいは彼女が枯れて、次の新しい花精が生まれるだけのことだ。

自然の流れに逆らう研究は、道に外れていると批判する者もいる。
文観はなるほど、腕の立つ医士だ。けれど、官吏の中においては、必ずしも彼の評判は高くない。周霖程ではないにしろ、変わり者の太医院医士長への批難は他の庭から来た国房ですらもそれなりに聞く。
呼び出された場所が建礼舎で無かった理由もぼんやりとだが理解ができた。

「まあそんな次第だ。他に難しい話は、なんもねえよ。…にしたって、いっかな来ねえな、山吹のやつらは。煌々が来りゃ、丁度いい案配で雄が齢ごとに揃うんだが。しょうがねえ、始めちまうか」

がらがらの嗄れた声に、正気に返る。医士らしく白い衣を羽織った男が、卓上の香炉を手にしたところだった。黒い鋼の、瑞雲の彫り込みをした蓋に、赤い房飾りをつけた小ぶりのものだ。見た限り何処にでもあるような拵えをしている。中に粉末を練り込んだ香でも仕込んでいるのだろうか。

「我々は、…その、どうすれば」

特に恐れもないようだが、積極的とも言い難い物言いで柳が問う。彼も彼で、文観には恩義のある身だ。頼み事をはねつける可能性は限りなく低い。
そこまで考えて、はたと気付く。この部屋には文観に頭が上がらない人間ばかりだ。教え子である恬子に、つがいが面倒を(正しくは自分が面倒を)掛けた周霖、そして意志薄弱さにおいては群を抜いている、自分。花精の反抗など、元より期待もできない。形勢の悪さを認識したところで、時既に遅しだ。

「おし、花精連中はそこの長椅子に腰を掛けろ。順番は何だっていいや。とにかく座れ」
「かしこまりました」




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