(13)
「…り、ん」
「?」
えっ、と思わずの態で漏らした世高の、決して細くはない首へと、白く骨張った手が掛かる。左手、右手。まるで縋り付くように。
「しゅ…り、……っ、ちが、う…?」
弱々とした声は、けれど指向性を確かに帯びていた。
花精の手は鮮やかな紺碧の衣の首根をさすり、巻髪に触れて頬をなぞる。ただそれだけの動作に、求める対象への、胸の詰まるようないとおしさがこめられていた。
国房は見た。僅かながらも、みどりの目が開いているのさまを。
やがて、伎良は、緩慢な瞬きを繰り返しながら束縛の糸を切り離そうとし始めた。大夫は支えをやめることもせずに柳を見下ろす。単純に観察しているようにも、感慨深げにしているようにも思える。
そこへ、不意に翳がさした。
「…なっ…?!」
ばっ、と風切りの音。誰かが―――いや一対のつがいを除く残りの者たちはみな、息を呑んだ。
どのような体術を使ったものか、世高が抵抗する間もなく退けられている。吹っ飛ばされた大夫も、らしくなく面食らった顔をしていた。
驚きに見開いた菫色の双眸が、正しくつがいを選び取った花精と、巨躯の男、それぞれを映した。男の―――周霖の表情は杳として知れない。鬣のようにうねる金茶の髪が彼の横顔を隠してしまっている。
「―――茶番は充分だろう。…伎良、悪ぃな。少し『貰う』ぜ」
低く、どこか口早に言うと、御史は執務室側面の窓に向かって腕を振り上げた。
僅かに上体を起こしていた柳花精が、広い肩に引っかかるようにがくりと頽れる。
同時に、疾風が鎌のように鋭く奔った。衝撃波を受けた観音開きの窓は全開になり、国房が先ほど夢想していたまさにそのままの姿で、伎良を担いだ周霖がそこから飛び降りる。
日除けが派手に翻る。しばらく波打つと、じきに窓から吹き込む穏やかな風に合わせて揺れるだけになった。
「……」
「……」
「……」
「…逃げ、おったぞ」と、ようやくまともに声を出したのは、やはりと言うか文観である。皺深い口脣はわなわなと震えていた。
「逃げおった!おい、煬大夫!起きていたよな、柳は!」
「…あい、つ、玻璃ひとつも割らずに開けやがった…。…へえ、加減が効くようになってるじゃないのよ…」
「そんなことはどうでもいい!恬子、計測はどうだ!」
「た、多分、所与は取れていますっ」
「多分じゃ駄目だと、幾度も言っておろうがこのたわけ!」
手前勝手に弟子へ怒鳴りつけ、医士は白衣を床へ脱ぎ捨てる。双眸は獲物を追う狩人のそれで、爛爛と輝いていた。
「ようし、後は蟲の素が如何ほど残っているかを診なければ!」
呆気にとられている三人の眼前で、ひょい、と痩身が窓の下へ消えていく。慌てて駆け寄り見下ろせば、青春宮の舗装された道を黄素馨の花護が軽やかに走り去っていった。外見に反する身のこなしに、そういえば彼もまた花の守護を負う者だと思い知る。
「ええと…」
未だ深い眠りについている花精へ、そして大夫と恬子へと順繰りに視線を遣ると、世高が肩を小さく竦めた。
「去る者追わず、よ。…ま、誰も追いかけたいとも思ってないでしょうけど」
「…はあ」
思わず正直な返事をしてしまう。上司は特段咎め立てもせず、ただ苦笑いしたようだった。
「恬子。さっき、文観が言ってたのって、あんた一人でも出来るの?」
「蟲の素の計測と、解毒ですね」先ほどまでの緊張が嘘のように、かけらの怯えもなく女は首肯した。「できます。自発的な覚醒を待つこと、実際の施術は精度をあげるために夕筒から行う必要がありますが」
「なら、そうして。…使えるなら阿僧祇も貸すわ。声は掛けておく」
「…煬大夫?」高い踵を鳴らしてきびすを返す背へ、問いかける。「どちらへ」
「文観のとっつあんを止めに行くのに決まってるじゃないの。まず大丈夫でしょうけれど、柳のつがいに追いついちゃったら、あの皺首、建礼舎か都察院か、…そこらへんの壁に吊り下げられちゃうわよ」
そういう対面の仕方はまだしたくないのよねえ、と言いながら、腰をふりつつ大夫は去って行った。国房も御免被りたいところだ。人選上、制止が可能なのは確かに世高だけだろう。
「…恬子殿」
医女は袂から取り出した襷でもって袖を留めている。逆境ほど底力を発揮するきらいのある彼女は、闘志みなぎる姿で振り向いた。なるほど、かの師に似ていると思ったが、指摘する勇気は皆無だ。
「何か、俺にも手伝えることはあるかな」
「では、緋鞘の手を握っていてあげてください。もしかしたら、伎良さまが早くに覚醒したのは、…周霖さまがそうしていたからかもしれないから」
お願いできますか、と問う声に頷く。
国房は転がっていた椅子へ直して、腰を下ろした。御史がしていたように、皐月の手首をとり、掌で包む。
(「…緋鞘。なあ、起きてくれよ」)
目を瞑れば巌のような広い背中が思い浮かんだ。国房に見えていたのは終始それだけだった。
彼は何を思い、何を願っていたのだろう。
ひんやりと冷たい、花精特有の肌の感触が自分のそれに馴染んでいく―――そうして待つ。
薄い目蓋が開いて、紅紫のひとみが見開かれるときを。
>>>END
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