笑う男(10)
「君が黒澤?V組の黒澤備?」
備と同じくモーゼ機能を搭載遊ばしていたイケメンは、やたらにさらさら且つ艶やかな髪を乱しながらこちらへ寄って来た。整った鼻筋、物憂げに陰翳を作る睫。額や頬に纏わり付く髪毛が妙に色っぽい。美形は何を遣っても得だ、というが、成る程このことか。一回で良いから頭っから水ぶっかけた様を見てみたいな。
「…は、ごめん、呼び止めて。ちょっと話がしたくて…」と山ノ井は言った。「オレは山ノ井夏彦。T組」
それから山ノ井は理想的に美しい笑みを浮かべた。口脣の弧の描き方から、眉尻の下がり方まで何処を取っても文句の付けようのないくらい、完璧な微笑みだった。
伝説のゴーゴンに遭遇したかのように、俺は思わず停止してしまった。うわ、何だこのキラキラは!
「違う」
「…え?」
「…俺は、黒澤備じゃない」
あんだとぉ?
山ノ井の放ったイケメン光線から俺を救ったのは、友人、黒澤備の信じられない一言だった。下顎を情けなくも垂らしながら、奴を見上げれば、例の鉄面皮は山ノ井の視線に1ミクロンも動じた様子もなく、ガンをくれ返していた。
「人違いだ」
備は一言、そう言い放つと、再びうじゃうじゃとたかる人を押しのけて進み始めた。波紋が漣むようにして沈黙が広がっていく。この収拾、どうすんだ。どうもしないんだな。
―――しょうがねえ。
俺は物凄く態とらしく袖を揺らし、オーバーアクションで眼鏡をかけ直した。
「あ、やっべ!ホームルーム、もう始まるんじゃん」
猿芝居もTPOが合致すればそれなりに効果があるのだ。
現に、群れ集っていた2年生は「あ、」とか「やべ」とか呟きながら、階段を降りるべく動き始めた。そのまま速やかに撤収願います、先輩方。
山ノ井は掛けられる声に明るく返事をし、手を振られれば朗らかに振り返していた。先ほどのガン付けを気にする風はない。そのまま流してくれると良いのだが。うぉ、こっち向いた!
「…助かったよ、次から次へと来るから、オレもどうしたらいいか分からなくなっちゃってさ…」
少し困ったように吐息混じりで言う姿も、やたらと様になる。無駄のない動作でするり、と進み出でて、俺の目の前に立った。備と同じくらいの長身だ。どいつもこいつも成長期で羨ましいこった。しかも、腰の位置や足の長さに関しては成長期以前に造りからして違う気がする。遺伝子か、遺伝子なのかそれは。
こんにゃろう、と思っていたら、まともに相手を捉えられるようになった、気がする。山ノ井は額に掛かった髪を、これまたすんなりした指で掻き遣りながら、「君は」と言った。
「君の名前は?黒澤の友達なんだよね?」
「多分」と俺。「…今日のところはあいつと纏めて放っておいてくれると有難い」
「…ふうん」
山ノ井は納得したような、何とも判断しがたい態で鼻を鳴らした。それから、優雅に瞬きを数度。ちかりと光るひとみが俺を射る。
「じゃあ、忘れるから教えてよ」
「…あん?」
「忘れるから。とにかく君の名前が知りたい、かな」
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