(2)
懸命に唇を動かして正しい発音をとる。いまだ俺の中に入ったままの指が、歯やら口の裏側やらを擦りあげる格好になって、何やらこそばゆい。しかも呼吸が当たり前に苦しくなってきた。人の指を咥えながらうまく空気を取り込める芸当の持ち合わせはない。
もういいよ、と言いたくて、彼の体を叩こうと思った。そして手のひらが醤油まみれであることに気づく。服だろうが膚だろうが、こんな手で触ったら友人がべたべたになってしまう。その前に、開けっぱなしの口から溜まりつつある唾液が零れて上回る惨状を呈するかもしれない。慌てて観春の指を噛みでもしたらどうしよう。
「み、みは…、お願い、…からっ、離ひ、」
遅まきながら最悪の事態に思い至った俺は、酸欠も手伝って大恐慌に陥った。泡を食って、おぼつかない言葉を紡ぐ。増えた瞬きに押し出されて、目尻の涙がどんどんと増えていく。
肝心の同居人は黙り込んだままだ。夜景の明るさというものは自身一点を照らすだけで、部屋の明かりから離れてしまえば、彼の白皙を、その怜悧な美貌に浮かんだ表情をあきらかにするには、あまりに足りない。
こちらをじっと見ていることは分かる。ゆっくりと開いた口脣が、俺の名前を呼んだことも。
「…青梧」
―――どん。
続いて、ぱらぱら、と花火が散る音がかすかに耳に届く。
そうか、もう花火大会の始まる頃合いだったのかと混乱した頭の隅っこで考えた。
だから玉蜀黍を用意して、烏龍茶も冷やしておいて二人で見物をしようという話だったのに。
どん。…ぱん、ぱらぱらぱら。
追いかけるような遠い歓声が、あがる。割合と近いところから子どもの声がした。きっと同じフロアの住人だろう。白とも黄色ともつかない人工の星のかけらが高層の塔に降り注ぎ、一瞬だけ、視界にひかりが戻った。
睫毛の先までかかる前髪から、こちらを静かに見下ろしている双眸はごく薄い茶色だ。細められたそれには喜怒哀楽の別がつかない、感情の色が浮かんでいる。薄い口脣をすっと引き結び、触れ合うからだの継ぎ目から、俺を推し量ろうとでもしているのだろうか。
推し量る?―――俺の「何を」?
ゆっくりと指が引き抜かれる。長く、理想的な線を描いたその先がてらてらと濡れ光っている。原因に思い至ってかっと赤くなった。そら見たことか、唾液だらけじゃないか。観春は先ほどに比べると、意思の判然としない表情になっていた。ぼんやりしているように見える。ぼんやりと、俺の顔を見ている。
「手、…洗って来いよ」
相変わらず至近距離から突き刺さる視線が痛くて、俯きながらそう諭すのが精いっぱいだった。羞恥に染まっているであろう顔色を、花火の所為にできたらよかったのに。けれど、こういうときに限って上がっているのは白だったり、黄だったりの誤魔化しきれない火花のいろだ。
一向に相手が動く気配はない。暗いからきっと大丈夫、と自分に言い聞かせ、今度はちゃんと彼を見上げて勧める。
「観春。ほら、手が汚れた」
「…あー…」
反応があったことに少し安堵する。
魂が抜けた、じゃないけれど、ちょっと過剰すぎるくらいにぼうとしていたからな。煥発とした印象のある観春らしくないことだ。
「早く、台所行って来いよ。洗面所でも」
彼は肩をすくめると「べつにいい」と続けた。いつも通り、飄々とした感のある声で。
ひっきりなしに上がり始めた花火をBGMにしても、友人の声音はよく徹る。ふと、人間の耳は機械と違って、聞きたいものを上手に拾うようにできているらしい、という話を思い出した。
「そんな騒ぐほどのことでもねえし」
「は?」
「はは…間抜け面」
これは間違いなく俺を指して言ったんだろう。それから、
「!」
「醤油味」
ちゅ、と人差し指を吸い舐めて呟いた。
言わずもがな、俺の舌を弄んでいた自分の、指を。
驚愕の展開にあんぐりと口をあけると、観春は対照的に莞爾と笑う。見せつけるように手をひらひら振りまでしている。
「こういう味のスナック菓子あるよな。あ、まさにこれか。焼きトウモロコシ」
「ば…」
「ば?」
「ばか言ってんじゃねえよ!お、お前、今、いま…」
俺の唾液でべったべたのぐっしゃぐしゃの指を、躊躇いもなく舐めやがったな。しかもその感想がスナック菓子だって?おかしいだろ。
思わず彼の手首を引っ張って無理やり下へと降ろす。客観的に見たら説明しづらい、近すぎた距離のことなど、きれいさっぱり吹っ飛んでいた。
「だから、別にそんな騒ぐことじゃないってさっきも言っただろ」
そのつもりでやったんだし、と意味不明な発言まで飛び出す。
「論点ずれてる!違くて、そういうときは舐めるんじゃなくて手洗いだって。もしくはタオルで拭け。意味がわからない!」
「…ショーゴってさ、がちがちの“常識”で危機感が眩んでる感じがするよね」
「じょ、常識人で何が悪い!」
別にこちらが強要したわけでもないのに、このありあまる恥ずかしさはなんだ。噴火山よろしく赫々と怒る俺に、友人は小さく鼻を鳴らした。
「なんか顔赤いけど。フツー、そこ引くとこなんじゃねえの」
「引いてるよ!ドン引きしてる!」
「全然、そう見えないし。…あとさ、」
痛いよ、とつぶやくように言われ、ようやく思い至って彼を解放した。動揺のあまり力いっぱい、彼の手首を掴んでしまっていたらしい。
勢いよくぎゅうぎゅうと握っていた部分をこれ見よがしにさすられる。
「…そんなこといったらキスするときどうすんの」
もっと大変なことになるんだから、と笑みにゆがむ唇には容赦がない。そこまで大事になった経験はない!とこれまた悲しい事実を声高に絶叫したところ、友人は心底愉快だったらしく、わざとらしい仕草で口元を押さえて笑いやがった。
早く台所へ行くよう追い立てる。まだ収まらないようで、広い背中は小刻みに揺れていた。
花火の音も、光も既に遠い。
「…」
俺は茫然と立ち尽くす。首の根からじわじわと正体不明の熱さが這い上がってくる。
だから、論点がずれているんだよ。
俺が言いたかったのは、
お前が言っていたのは、
「おかしいだろ…」
"意図的に"舐めたのだから、問題はない、って、それは絶対に、変だ。
そもそも論として友人の口に指を突っ込むことが正常なのか、という前提についてきれいさっぱり失念していたのだと(「彼」が自らの言を以て忠告していたにも関わらず、だ)俺は相当先になるまで気が付かないでいた。確実に萌芽しつつあった自分自身の感情も含めて。
―――すべてが、ひとつの終わりを迎えた、そのときになっても。
>>>END
→W.養花天
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