星奉りの夜に
俺が観春の所に転がり込んで迎えた初めての夏。
…冬織に出逢う少し前の、残炎のころの話だ。
観春の住んでいる部屋はマンションの高層階に位置している。季節ともなれば、港湾方向に面した窓から、打ち上げられる大輪の花火が実に良く見えた。物件の売り文句として夜景のうつくしさと、夏の花火は欠かさず入れられていたそうで、通路部分を除き8畳ほどの広さで取られたベランダには、添え付けの簀の子やベンチまでもが置いてあった。
「…毎年見てれば飽きるけどな」
と観春は言う。
暑いらしく、鉛丹色の長く伸びた髪を、後ろでひとつに結んで、Tシャツにカーキ色のカーゴパンツなんて格好でいる。しっかりと張った胸板に薄手の服が掛かるさまというのは、否が応にも男っぽさが増して見えて、同性であるのに、なにやら目のやり場に困ってしまった。
(「…馬鹿か、困るってなんだよ」)
そんな自分にさらなる羞恥を覚えつつ、結局は視線を逸らす。すると、彼はこちらの頭を軽く小突いて笑った。
「痛いよ」
「そんで、これどうやって喰うの?」
二人して寄りかかるベランダ(もしかしたら正式名称はバルコニー、だったりするのかもしれない)の手すり、背後にはベンチとセットで置かれた小さな円形のテーブルがある。
テーブルの上には玉蜀黍が見るからにうまそうな湯気をたてて積まれている。
俺がさきほど、ゆがいたものだった。観春の部屋には本人が全く料理をしないにも関わらず、ちょっとした喫茶店を開けるレベルの調理器具が用意してあって、結構な量のそれをさばくにも大した労力はいらなかった。寸胴にたっぷりの水を沸かし、二つに切った玉蜀黍を次々放り込んでいく。つややかな黄色の粒が膨らんだところでざるにあけ、皿に盛り付けて醤油を少し回す。軽く焼いてもいい。
熱々の芯に気をつけながら歯を突き立てると、甘い汁が口腔に溢れる。シンプルだけれど、とてもうまい。
生家に居たころ、夏のおやつとして母が供してくれたことを思い出した。きっと彼女もそのつもりで、持たせてくれたんだろう。
週末に夏休みを利用して実家に戻ったのだが、案の定、久々の郷里は歓迎なんてムードとはほど遠い雰囲気だった。夏祭り時期で慌ただしいというのもあったが、父、長兄とはなんとなく顔を合わせづらく、アルバイト帰りの観春が、暇潰しがてら電話をしてくれたのを呼び水に、結局一日にも満たない滞在になってしまった。
俺の家は四人きょうだいで、上には兄と姉、下には弟がいる。
高校に上がった時分、絶対的家長である父から言い渡されたのは、「大学でも専門学校でも行けばいいが、お前にやる家や畑はない」ということだった。
裕福でもないものの、両親は専業農家を稼業としており、祖父母から引き継いだ家と田畑、値段の張る農作業の機械は一通り財産として、ある。それらはすべて長男である兄に約束されたもので、いまひとりの姉は既に結婚をし、家の近くに戸建てを建てて、同じく農業に携わる夫と暮らしていく予定でいた。
小学校の弟は難しい話をされるには幼かったし、まだ大分の猶予があった。彼は我が家の誰に似たのか、というくらいの天真爛漫な気性――友人の伊関に少し似ているだろうか――で、父のお気に入りとして厳しい沙汰が下されないだろうことは明々白々だった。
問題は俺である。
家の仕事を手伝っていくのだ、なんて漠然と思っていたところを横合いから金槌で殴られたような気分だった。
家に戻ることは勿論、不可能ではないが、立場は完全に使用人のそれになるのだと、宣言されたも同じであった。
時代錯誤だと笑われそうだけれども、俺の故郷は長幼の序であるとか、本家分家のようなものが、どんなに小さな家でもうるさく、未だにそうした気風が色濃く残っている土地である。父が言ったことは絶対で、同席を命じられた兄も黙って畳の目を見つめているだけだった。彼においても、異論はないということだ。
呼ばれもしなかった母の発言はほとんど効力をもたない。きっと閉め切られた襖戸の向こうから、いつもみたいに、ぎゅっと唇を引き結び、それでも前を向いてこらえていたのではなかろうか。
そうして、俺は家を出たのであった。
兄に使われるのが厭だ、というわけじゃない。本当に厭だったのは、父親に指摘されるまで、疑問も怒りすらも持たず、流れに乗っかっていた自分だ。やりたいという意志よりも、一番無理がないから、無難だからと深く考えてこなかった自分自身。
殴られた頭にはひびが入り、遅まきながら思考という名前のひかりが射し込んだのかもしれない。
農業や林業に関わることは好きだったから、進路を決めるのに迷うことはなかった。専門の勉強が出来て、進学が叶えば学士もとれる、授業料の安い国立の高専を目標に、足りない学力は、これまでの人生で最大の努力をもって必死に補った。
いずれ帰る日があったとして、今は一度ここから出て行こう、と定めて。
合格して後、両親には学費の類は一切いらない、己で賄う、と伝えてある。
父は無言、母は仰天し、けれど彼女は別れ際に、しっかりと厚みのある封筒を押しつけてくれた。「これを使え」と言ったあのときの表情に、深い心配と微かな誇らかさを感じたのはおこがましすぎるだろうか。
今から考えれば随分と無謀なことを言ったもので、入寮許可は出ていたけれど、一人暮らしの初期費用にどれほど掛かるかも知らず、アルバイトのあてもこれから探すという状態だったのだ。母のくれた資金がなければ、教科書を買いそろえる金すら怪しかっただろう。よく言えば思い切りがよかったわけだが、今にして回顧するに行き当たりばったりが過ぎた気がする。柄にもなく意地になっていたのかもしれない。
母親には大変申し訳ないことに、貰った金を切り詰めながら細々と買いそろえた、例えば台所用品とか、洗面器具などはあらかた無駄になってしまった。
一人暮らしを始めてからしばらく後、俺は中村観春という男に拾われたからである。
「ショーゴ」
「え、ああ、悪い」
ゆであがった玉蜀黍に、久々の実家の空気を反芻していたら、傍らの友人が窘めるような声を出した。慌てて顔を横へ向けると、柳眉を寄せた長身は、やれやれと言わんばかりの溜息を吐いている。
「話途中なんだけど」
「そう、だったな。うん。…これ、芯のところを指で支えながら食うんだよ。身のところはまだ熱いから、」
寄りかかっていた柵から背を離し、盛り付けてある玉蜀黍のひとつを取り上げる。自分で説明しておきながら、やはりの熱さだった。冷えてもまずくはないのだが、やはり調理仕立てのものを食べるに限る。
「醤油、回してあるから。垂れるから、服とか気をつけてな」
「母親みてえ」と観春。
くすくすと笑われ、確かに母も口煩く言っていた、と思い出して恥ずかしくなった。
つくりもののように整った友人の顔がやさしく緩んださまがあまりに綺麗だったのも、ある。いちいち見とれすぎだろ、自分。
「…ごめん」
「別にいいけど。…ショーゴってお袋似?」
「どちらかといえば。一番似ているのは死んだ爺さんらしいけれど、顔、よくわかんないし。観春は?」
「俺は誰にも似てないよ」
彼は事もなげにそう言って、俺の様子を見ながら玉蜀黍を手に取った。長い指、きれいなカーブを描く爪先が用心深く芯の両端を持つ。観春の家の雰囲気からして、こういった食べ方をするのは初めてなんだろう。いつも堂々として見える彼がこのときばかりは幼く感じられて、手本をしめすように思い切りかぶりついてみせた。
隙間なく植わった粒がぷし、と熱い汁をこぼす。醤油と玉蜀黍の甘さが混じり合い、懐かしい味が口腔に広がる。
「…あち」
舌がびり、と震える。反射的に腰を退き、玉蜀黍を口から離した。
あまりにテンプレート過ぎて自分の粗忽さに泣けてくるが、どうやら火傷をしたみたいだった。口の中の火傷って患部が確認しにくいから厭らしいんだよな。分かるわけでも、まして治りやしないのに、つい指でもって舌を撫でてみる。
「あっは、だっせ」
「うるさいなあ」
横目でにやにやしている彼を睨む。すると、影は数歩で俺の直前までやってきた。
「くち」
「ん?」
「口。開けて、みせて」
「あー…」
言われるがままに大きく口を開いてみせると、長身の腰を折って中を覗き込んでくる。そんな眺めてもいいもんじゃないのに。訝しく思いながらも、彼が伸ばしてきた手に逆らうことはしなかった。ほんとうに、ほんとうに自然だったから。
「んう…」
俺が先ほどしていたように、舌先を引っ張り、状態を診ているようだった。力が入っていなくても、外側へ舌を出すことなんて普通はないから、当たり前にえづいた。見上げながら、まだなのか、と生理的な涙が浮かんだ目で問うた。
「……」
「みひゃる」
「……ああ。赤く、なってるな」
「へ、わひゃるくらい?」
「わかるくらい」
まじか。
早くお茶でも飲んで冷やさないと。故に早く解放して欲しいのだが。
「…みはる?」
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