(5)



邸内で出歩ける場所を制限され、髭を剃る剃刀ですら自傷するかも、と取り上げられているのに、一足飛びか二足飛びくらいの進歩だ。竹簡が擦れて乾ききらない墨が肌を汚したのにも気づかず、その上に諸手をついて身を乗り出した。

「俺、碩舎に戻れんの?!」
「条件付きだが、答えは是、だ」と燕寿は言った。「俺は明日から戻る予定だった。お前にそのつもりがあるなら一緒に連れて行くけど」

どうだ、と目線で問われて即座にうなずく。

「行く」

条件付きってのと、一緒に、ってのが物凄く引っ掛かるが、碩舎に通えるのなら安いものだろう。そこでふと、見過ごせない事実に思い当たる。聞かずに済めばいいが、なけなしの沽券が許さない。

「…学費はどうすんだよ」
「誰のだ」
「俺のだよ!」と叫ぶ。「お前の学費の心配なんざするか!」

やつは「ああ」と溜息というか、心底どうでもよさそうな声を出した。なんだそんなことか、と言わんばかりの口調である。

「決まっているだろう、俺が払う。己のつがいの面倒くらい見れずにどうするんだ」
「…あっそ…」

実に想像通りの回答だ。
俺が女で、結婚する相手に主張されたら感涙にむせびそうな発言だが、残念ながら俺は男だし、こいつのことは好きでもなんでもない。よってうざさ半分、余計な借りを作っちまったなという引け目半分だ。
しかも、やつはこちらの罪悪感をはかったかのように、続けた。

「お前は俺が憎いんだろう?だったら、散財させてやった、くらいに思ってりゃ楽でいられるんじゃねえの?」
「誰が!」

反射的に吠えた。筆を叩きつける勢いで置きそうになって、慌てて自制する。
椅子をひっくり返さんばかりに立ち、睨みつけている俺を、花護は興味深そうに眺めた。体をこちらへ向けまでしている。

「そのうち働いて、必ず返す。てめえも忘れるんじゃねえぞ。しょ、証文でも作っとけ!」
「証文」
「そうだよ。『甲は乙に金幾らを貸し与えたこと、ここに証しする』とか何とか作りゃいい」
「…証文ね。…なるほどいい案だな。考えておこう」
「ふ…ふふん。感謝しろよな。その分、利息はなしにしろ」

ふんぞり返ると、何故か奴はとたんに俯いて肩を揺らした。くつくつと、咳みたいな音まで聞こえる。なんだ、変態特有の発作でも出たのか、ならば俺に構わず、すみやかに施療院へ行ってくれ。
残念ながらやつは妙な咳をしたまま、葛籠を我が方へと引き寄せている。そしてこちらへ意味ありげな視線を流す。話の様子から言って、碩舎へ行く条件と行李の中身が関係しているのだろう、あまり賢かない俺だとて、そのくらいはわかる。

(「…碩舎に行ける。空戒にも、逢えるんだ」)

長い指が蓋の端をひっかけるのを見ながら、しかし、気持ちは昂揚していた。中から蛇が出ようが蛙が飛び出そうが、大抵のことは耐えられる。
燕寿の野郎は音に聞こえた状元(じょうげん)、国試第一位の成績優秀者だ。碩舎の長に願い出れば飛び修了だって間違いなく赦されるはずである。なにせ状元は春の庭にある「健礼舎(けんれいしゃ)」への留学も認められているくらいだ。今更、戻る必要なんてなさそうだけれども。
一方の俺は万年横這いの水平飛行な成績で、修業だってあと三年残っている。両親が死んで、養父母が俺たちきょうだいを引き取ったとき、碩舎まで行かせてもらうことが身を寄せる条件のひとつだった。援助は今回の騒動で打ち切られているだろうが、何とか通い続けることができそうだ。
倫の金で修学を続けるのは不本意極まりないけれど、あとで返すと決めれば少しはふんぎりがつく。

妹の周囲が落ち着いてほとぼりが冷めたら、絶対に出て行ってやる。ここでずっと飼い殺されるつもりは毛頭ない。
花護になるにはひ弱すぎるし、花精になりきれない俺が、身分社会の夏渟で生きていくためには碩舎の修業は絶対条件だ。やつの言うように、ひとつ借り―――いやいや、正当な慰謝料だと思って利用しておこう。そして、後々耳揃えて叩き返してやる。ざまあみろ。
それに、空戒。
あいつに逢えるのは素直にうれしい。きっと案じてくれているし、妹の近況ももっと聞きたい。



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