誓約



うららかなある日の午後、俺は燕寿の机を借り清冽さんからの宿題をこなしていた。
倫の当主を一代目から延々と覚える、何の役に立つのだかよくわからない暗記課題である。…よもやいびりじゃあるまいな。
彼に言わせれば「燕寿さまが恥をかかないためにこの程度、完璧に覚えていただきたい」とのことである。この千載一遇の機会を自らの手で潰す羽目になるとは残念すぎる。でも清冽さんは怖いし、己の身は可愛い。

とりあえず、倫史書から帳面代わりの竹簡に人名を書き写し、今一つやる気の見えない自分の字とにらめっこをする。当主はしきたりに従い、頭に倫の字を必ず冠するので、「倫倭」とか「倫陶」みたいな名前になるのだが、結構な人数のお陰で同名のやつもわらわらと出てくる。すると、さらに生国がくっつく。「亡潭の倫志賀」と「鈷潭の倫志賀」といったように。五十人書いたあたりで頭痛、六十人で眩暈、七十人を超えた頃には吐き気だ。花精はこれを、一読しただけでぺろっと暗記しちまうらしい。やはり俺は花精じゃないんだな、としみじみ思う。因みに人間としても鳥頭なので、せいぜい、初めの五人がいいところだ。いや、無理よ。これ。だって二百人はゆうにいるんだぜ。うまく覚えるこつとかねえのかな。

こつなんて要るのか、と至極むかつく感想を漏らしやがったのは因縁のクソ、燕寿の野郎である。
忌々しくも朝は一緒に起床し、朝食ののち、俺は清冽さんの課題を始めたわけだが、やつはのんびり刀の手入れをしたり、のんびり臥榻に転がり直したりしながら、ひとしきり俺の苦悶を観察し、時間を消費していた。合間、ひとの難儀に茶々を入れることも忘れない。今日も今日とて、無役の名に恥じない暮らしぶりだ。
昼前、清冽さんが様子を見がてら、届けものがあると報せにやってきた。梔子の花精は実に働き者である。誰かさんに爪を煎じて飲ませてやりたい。
届けられたそれはクソが待ち焦がれていたものだったらしく、聞くや否や、ふいっと母屋へ行ってしまった。母屋にはやつの兄貴の旺寿さん―――清冽さんの正当なつがいでもある―――がいるから、関わりのある品物だったのかもしれない。おかげで心穏やかなひとりの昼食と相成った俺は、思いがけず安らぎを得たのであった。
お察しの通り、そんな貴重な時間はごくひとときのことだ。厭々ながら課題を再開させたところで、目にも綾な濃紅の衣袍姿が行李をひとつ抱えて、当然のように戻ってきた。

飴色の仮漆でつやつやとした机へ、半ば突っ伏すような体勢で書き取りをしているとひょい、と覗き込まれる。衣に焚きしめられた香のかおりが鼻をくすぐる。
…近いんだよ。

「今戻った。…なあ、昼飯、食った?」
「…食った」
「そう」とやつは僅かに落胆した色を浮かべた。「もっと早めに切り上げればよかった。失敗した」

気配を消して近寄るのが常態になっているという、一般人からしたら迷惑極まりない男に対して「頼むから存在が分かるように登場しろ」と怒ったのは、倫の邸に押し込まれてから割とすぐの出来事だった。
花護やお偉い旗族にとっては習慣なのかも分からんが、付き合わされるこちらの寿命は縮むばかりである。親友の空戒だとてやつと同じく花護兼、碩舎生だが、一緒につるんでいてそんなことは滅多になかった―――驚かしてやろう、という意図的な状況下であった時は除いて。
…ということは、常に俺のことをびびらせてやろうとでも思っているのだろうか、燕寿は。心臓に毛が生えているのはむしろてめえだろ、俺を殺す気か、いい加減にしやがれ、と怒鳴ったら「そんなに永く俺と連れ添っていたいのか、…かわいいことを言う」だなどと、発想の転換どころか、どう聞き取ればそのようになるのか、妄想とはかくあるべし的な返しをされてしまった。超解釈すぎて危うく尊敬しかけるところだった。
結果、俺の寿命を慮って(失笑ものだ)「わざと」足音を立てながら近付いてくるようになったクソは、意外と難しい、と、これまたむかつく発言をしてくれている。

「お前、その頁さ、昨日からずっとかかり切りだけれど。少しは頭に入ってるわけ?」

天蓋つきの豪奢な臥榻へ戻った男は、凉鞋(サンダル)をむしるように取って脱ぎ散らかし、引き締まった脚を布団へと上げた。最近、日々の生活の半分はそこで送っているんじゃないのか、と思わせるほどの定位置っぷりである。容赦のない動作で敷布が乱れに乱れる。几帳面が過ぎるほど整えてくれていた清冽さんに同情を禁じ得ない。
薄くなめした革で作られた履き物が床へたたきつけられていくのを横目に、俺は竹簡へと神経を集中させた。後生大事に持ってきた行李も、地べたではなく、寝台の上に乗せたようだった。

「ほっとけよ。…しょうがねえだろ。清冽さん、来週あたり試験やるって言ってたから、」
「はあ。あいつも熱心なことだな」

他人事感溢れる感想をどうもありがとうよ。

「そんなものがお前の価値を認めさせる一助になるとも思えないけれど」
「……」



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