(2)
降ろされた日除けに逆光は大分弱められていたから、男の視界を灼いたのは光ではなく、あるいは、既視感だったのかもしれない。
手甲代わりの袖は長めで、白い手の甲を覆っている。のべられたその手が男の頬を撫でた。低い体温。一重の眦はわずかに細まり、みどりの双眸へあまさず男の変化を映そうと試みている。
青年のこころが男の精神の戸を叩く。何があったのか。命令が取り消されたのか。心配だ―――、
「周霖(しゅうりん)?」
耳によく馴染む声がやさしく響いた。
衣の色こそ見慣れた紺地だが、動きやすさと防禦に重きを置いた装いは娶ったばかりの頃にさせていた格好だ。もっとも、その時分はどこもかしこもほつれ、繕われて惨憺たる有様だった。彼自身の赤い血と、蟲から浴びた白い体液で布地が灰色に変じるほどの。
死んで―――枯れてしまっても、構わない、と思っていた。
例えこの花精が枯れても、次がすぐに補充されるだけだ。もしかしたら柳ではなく、別の種が男を選ぶかもしれない。樒が唐桃に、唐桃が柳に変わったように。些細な差である。
立ち上がれるのなら、男の用が終わるまで使い倒すつもりだった。花護である限り、男は花精を酷使する。ひとの似姿をもった花の化身たちは、「花喰人」と仇名された男にしてみれば、理力の源、兼、閨の相手の域を出ない。顔や性格など、原則どうでもいい。
地味な容貌と雄ゆえの直線的な体つきは初めこそ”やりづらかった”が、幾度か抱き慣らしているうちに具合はよくなった。むしろ期待外れであったのは理の力だ。春苑屈指の種であるはずが、この柳花精は平々凡々の理力しかもたない。男は余計に次を望んだ。
だから、平気で蟲のはびこる森へ投げ込んでいたのだ。あるいは巣へ。囮に仕立てたこともあったし、這いつくばるざまを後目にちからを吸い上げすらした。
「…ぞっとしないな」
「?」柳は首をかしぐ。「なにが」
「お前。感情がだだ漏れだぞ」
「は?」
今なら壁を越えて隣の部屋まで筒抜けなんじゃねえの、と続けると、花精は限りなく無表情に近い面相になった。反比例して、男に触れる気配はいっそう、不安げになる。
(「…だからだだ漏れだって言ってんだろ」)
柳はつとめて、男のこころを読まない。男が嫌がると知っているからだ。一方で自分の感情を殺し損ねていることに、未だ気づいていない。おそらく無意識なのだろう、良いように拾わせてもらっているが。
頬を包む手に己の手を重ね、空いた方の腕でもって彼の腰を抱き寄せる。この体躯に蟲の牙が突き刺さる。強靭な咢を使ってばりばりと噛み砕き、咀嚼するのだ。きららかな碧玉をはめ込んだような瞳は生気を失い、男を呼ぶ声は永久に途絶える。
あのときの神経を心の底から疑う。
いや、疑うなんて生半可な仕儀では済まされない。横っ面を張り飛ばしてよく考え直せと言ってやりたい。
彼を失うのだ。
形而上とするには、訪れた喪失の未来はあまりにも重く、冷たく、存在感を持っていた。我知らず抱く腕に力がこもり、花精が悲鳴をあげる。ぐっ、という色気のないそれが可笑しく、ほっそりした首筋に顔を埋めた。戸惑いつつも応えてくれる手がいとおしい。
「ほんとうにもう、どうしたんだ…」
「当ててみろよ。そうしたら放してやる」
「また、それか」
心配する必要はないと判断したのか、感情は困惑へと移ったようだ。
見当違いの予想を片っ端から笑い、もしくは否定しながら、―――決して明かさない答えを。
なつかしい衣装だと言うにはあまりに日が浅すぎる。
彼を道具のように扱っていた時代、その結末に、思い馳せて恐怖したのだ。過去の己はきっと嘲笑う。骨抜きにされたか、愚物め、と。
花精をあやめるよりも、獅子と評される分厚い胸へと鋼をぶち込んで黙らせる方が、きっと容易いだろう。
>>>END
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