白日夢
よく筋の張った腕を組んで、男の上司――世高(せいこう)は芝居がかったしぐさで溜息を洩らした。
男は、旅装をしている。
内勤用のゆるやかな衣袍ではなく、分厚い生地で織られた上衣に簡易ではあるが裲襠(りょうとう)と呼ばれる鎧を着込んでいた。皮と鋼で拵えたそれは平和を謳歌する春苑においてはいささか、物々しすぎる装いに思える。癖の激しい金髪を律儀に結い、腰に剣鉈を佩いたさまも平生の適当な格好とは程遠い。鋼鉄の仏頂面すら知った者であればわかる程度にゆるんでいる。
機嫌のよさの所以を知っているからこそ、世高は嘆息をやめないのだ。彼の内心をはかってか、男はにやついた。あくどい笑みを見、世高の眉間に皺が増す。
「いい?」と大夫は念を押した。「あくまで環城の支援ですからね。あんたが前面に出て行ってちゃんちゃんばらばらとかやめてよ」
「…努力する」
努力という言葉を口にして、これほど白々しい人間はいるまい。
蟲の繁殖期に差し掛かり、地方の県から応援の要請があった。恒久の平和にまどろむ庭においても、冬園、夏渟と接する境は蟲の襲撃が少なくない。
「青の天涯」―――春苑のみ持つ、理力の障壁は周期的に網の目が弱くなる。蟲の動きが活発になる時期と「天涯」が弱くなる時期が重なれば、周辺の街は甚大な被害を受けた。田畑は荒らされ、城塞の石壁は突き崩された。「天涯」を抜けた際に負った傷で瀕死となった同胞を喰い、あるいは屍を踏みつけながら、蟲は人界を目指す。そこに蜜をしたたらせた甘い果実があるのだと、信じて疑わぬかのように。
環城の巡境使や防衛はなるほど、他県の武官たちより経験を積んでいるだろう。だがそれですら、今回の大攻勢は手に負いかねている様子だった。数年に一度、あるかなきかの燔祭に慣れる者などいない。
助けを求める特使が兵部へ到着し、どこに白羽の矢を立てるべきか渋る兵部侍郎(じろう)が同窓の友であった煬大夫に相談を持ちかけ、大夫が「万騎に勝る」と推した官吏が、裲襠姿をした黄金の髪の男。世高の部下である、都察院(とさついん)の御史である。
政務監査の府である都察院の官が、およそ受ける類の任ではない。本務外もはなはだしい。
だが、男は一も二もなく頷くだろうと世高は踏んでいた。
彼にとっての本望はまさにそのような―――ねばつく石灰にも似た血にまみれ、鋭い棘を備えた手足を斬り飛ばし、装甲に覆われたはらわたへ剣を突き立てるような業にあるのだと知っている。
「…聞くまでもないことね」
「何の話だ」
「いいえ、なんでもないわ」
思わず漏らした独り言を救い上げられ、男の上機嫌を改めて悟る。およそ上司の反応など気にする類の人間ではない。これはちょっとした一大事である。
犬の仔にするように手をひらひらと振り、退出するように促した。
「手形はあんたのつがいに渡してあるから。頭の固い連中に邪魔されないうちに、さっさと行ってきなさい」
執務室の扉を開くと、等身大の鏡を前にしていた影が衣擦れの音すら立てず振り向いた。男の帰参を端から知っていたかのような動作だった。
「…おかえり」
…かすかに唇をほころばせた控えめな笑み。これは、一体いつから男に与えられていたのだろう?
裲襠こそないが、男同様に厚手の上衣を着込み、脚の線に沿った袴(こ)を纏っている。踵の低い、平らかな布靴を履く足は皮製の長靴に包まれて、銀の鈴を下げた足環のほか、装飾品の一切が外されているようだった。青年の出自を示し―――男の所有だと明らかにするための首輪が詰めた襟元に見え隠れする。実際、花精という存在に膝をつかされているのは人のほうだと思っていたのは過去のこと、優位性など、今はすでにどうでもいい。彼と男がつがいであると証されていれば、それで。
扉が自然と閉まっても一向に動かない男を、青年は不思議そうに見つめた。やがて訝しげな視線は案じる表情にとって代わり、ためらういとまもなく、歩み寄ってくる。花精特有の、身軽な足の運びであっという間に男の前へ立つ。
「どうかしたのか。…煬大夫に、何か言われたか」
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