(7)
男は追ってはこなかった。俺もまた、彼のあとをつけることはしなかった。
游水の方角を目指して川沿いを進むうち、橋に立つ影を見つけた。
欄干へ寄りかかり、煙管をふかしている。たなびく紫煙はいっとき留まったのち、綾取りをほぐすかのように溶けた。格別うまそうでもない癖に吸うのは手持ち無沙汰ゆえだろう。酒も煙草も、もしかしたら他人とまぐわう快楽ですら、慰めには遠いのか。
そう思うと胸が、痛んだ。俺の手で取り払える闇など、はなから存在しないのかもしれない。
橋の手すりでもって煙管の雁首を軽く叩くと、ふいに男がこちらを振り返った。頭を覆っていた比礼は首回りにたぐまって、癖のある長い髪が顔の輪郭を縁取っている。
念のため、辺りを窺ってから名前を呼んだ。
「周霖」
「…終わったか」
比礼を取り払い、周霖目指して駆ける。この付近は夜遅くでも人の往来があった。万頭や温かな麺を売る屋台の灯がぼうと辺りを照らしている。
男は改めて一瞥すると、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「あんな連中まで寄ってくるとは、よくよく俺も舐められたものだ」
全く同じ感想を抱いたことは、敢えて言わずにおいた。実際は馬鹿にされているというより、怨みが広範囲にわたりつつあるのだ。あまり歓迎できた話じゃない。
「素性は。確かめたか」
「…必要だったか」
涅色の瞳が細まり、鋭く俺を睨め下ろす。しばしの間を置いたあと、周霖は「いや」と言った。
「不要だ。堂々と喧嘩を売ってこようが、顔を隠して襲ってこようがやることは一緒だ」
「確かに」
「それで、何だ。用件は。わざわざ迎えに来たんだろう」
官舎方面と思しき道へ向かって歩き始めた男に肩を並べた。手短に世高の命を伝える。大仰に吐かれた溜息がその返事だった。いかにも大儀だといった様子だ。
「そこはあの男女が口でどうにかするところだろうよ。問われるたびに書き物を見々、返答するつもりか。面倒極まりないな」
「……」
反論しても、したり顔で宥めても、周霖は間違いなく怒る。よって黙った。やり過ごせない仕事だということは、彼だとて充分に分かっているはずだ。
口を噤み、ひたすらに大股の歩幅に置いて行かれないよう努める。頭上から舌打ちが聞こえてきた。
「仕方ねえ…」
「どちらへ戻る」
「都察院」
「わかった」
大路に入り、広場を横手にして青春宮へ。今夜は夜なべ仕事になるかもしれない。夜食の支度でもしておいたほうが良いだろうか。つらつらと考えていると、ふっと周霖が嗤う気配がする。仰ぎ見ると、あの感情を覗かせない双眸でもって、再びこちらを見下ろしていた。
「しかし残念だったな、伎良よ」
「?」
首を傾げる俺へ男はうっそりと嗤った。
「連中がうまく事を運んでいたら、まともな花護に嫁すことも出来たろうに」
「は…?」
「好機を逸したな」
歩みは自然に止まっていた。周霖に投げかけられた言葉の意味を理解しようと、思考は忙しなく働く。数歩手前を進んでいたところ、俺の反応がなかったからか、男もまた立ち止まった。その腕を掴む。
いつになく乱暴な行いに、獅子と喩えられる強面は驚きを浮かべていた。
「本気で言っているのか」
水底に沈む昏い土色のひとみを、睨み返した。
堆積した泥を掻いたところで何一つ掌に残らない。すべて指の間からこぼれ落ちていく。
俺は―――我々は、種の存続を保つためだけに番っている。いみじくもあの青年が指摘したとおり、それが、お前から得る唯一だ。だから差し延べた手に残るものへ期待などしない。
けれど、俺の口脣は異なる言葉を紡ぐ。ふたたび沸き上がる怒りの在処は、不明だ。
「本気で、言っているのか、と聞いている」
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