(3)
床袍の袖を噛み、頭を膝へ埋める。寝間着の白さが恨めしかった。少年の髪は母譲りで、ぬばたまの黒さを誇っていたので、闇夜と良く馴染んだろうから。体を小さくしていても、用心深く探せば、仄白く浮かぶ衣を見つけてしまうかもしれない。
母は、彼女が戻るまで声も出すな、と厳命していった。
つまり、見つかってはならないのだ―――絶対に。
「…高子(こうし)さま?」
「…!」
やわらかな、聞き馴染んだ声音が少年の名を呼ぶ。
信じがたい思いで、恐る恐る顔を上げた。清澄とした声は、今一度少年の名前を呼んだ。
「…高子さまですか?」
「澄鳴(ちょうめい)?」
「こんなところに…」
鉄の鐘のような形の行灯が暗がりを照らす。白目に光が反射して、覗き込んだ相手の双眸がいやに光って見えた。それでも、目が慣れれば安堵の方が勝る。
海棠(かいどう)精、澄鳴は少年にとって馴染みの花精である。
父の花精は毎日出仕するつがいに従い、親と同じく家を空けることが多かった。家令としての役目も兼ねていたから、花精自身も多忙を極めていたのだ。
ただ、この澄鳴は邸を訪うたび、子どもたちの部屋を覗いては遊び相手を務めてくれた。人間ではまずお目に掛からない、薄緑の髪と紫水晶を思わせるひとみ。もしかしたら母よりも白い膚をしたうつくしい青年は、叔父と並び楽しみな客人である。女のような己の幼名も、この花精が口にすると悪くない響きに感じられた。
さあ、とほっそりした手がのべられて、躊躇なくそれに縋った。頭の中は花精が登場した理由をめまぐるしく考えている。
(「…きっとお屋敷に賊が入ったのだ」)
近頃、父母が邸の守備や、日々の食事に神経質なまでに気を遣っていたと知っている。
ここ数年で雇い入れた者は暇を出され、古くから勤めていた下人の中にも姿を見なくなった人間が幾人かいた。食器の類は陶磁器からすべて銀製に変えられた。食事の際、机や箸とぶつかる音が喧しく好みではないと、母がずっと仕舞っていたものだった。
(「その、誰かが火を放って、父や兄は戦いにいった。叔父は、窮地を助けにきてくださったのだ」)
豪快で派手好みな父と、人付き合いが巧く何事にも細やかな配慮を欠かさない叔父。二人は対極に近いほど性格が異なるけれど、いざというときは頼りになる兄弟なのだ。少年のきょうだいも、皆、仲が良いから分かる。ぎゅう、と花精の手を握ると、彼もしっかりと握り返してくれた。足元に注意を払いながら敷居を跨ぐ。
果たして、玉砂利の上に立っていたのは叔父であった。深く皺の刻まれた細面が、轟々と燃える炎をうけて赤く照らされている。
「叔父上…!」
「高子か」と叔父は僅かに頷いた。「息災のようだな」
平時に交わすような挨拶が奇妙に感じられる。少年は内心首を傾げたが、救援が来たという喜びが、訝しく思う気持ちに封をした。
「あの…、父と母は。そ、それに、火を消さなければ!これでは、邸が燃え落ちてしまいます」
賊を斃すだけの剣力は、己にはまだない。ならば母をはじめとする家の女たちを守り、この凄まじい炎を消し止めるのが自分の役目であろう。脱げかかった沓をそのままに叔父へと詰め寄る。だらりと下がった袍の袖を掴むと、何か湿ったものに触れた。
「……、…?」
赫々と輝く火を頼りにして、叔父の腕を見下ろす。
ゆるやかにたなびくはずの旗人の袖は、所々が邪魔にならないよう縛ってある。それでも袖口はほつれ、破れ掛かっていた。物々しい手甲がぶら下げた剣鉈に、べっとりと黒い油のようなものが付着している。
少年は、叔父に触った己が掌を見た。
黒い―――いや、赤い。
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