(2)



(「…母様…」)

夜中、自室で休んでいたところ、血相を変えた母が飛び込んできた。
夜着の帯はゆるみ、沓はなく素足で、寝る間際までつけている孔雀石の耳飾りと、乱れた結い髪がひどく不釣り合いだった。日頃、身綺麗にしている女主人にあるまじき有様である。

『起きていますね。…すぐに沓を履いて。着替えずともよい』

寝台から身を起こし、足を沓に差し込んだか否かのうちに、ぐい、と手を牽かれる。彼女らしからぬ容赦のない動きに負け、体は勢いよくつんのめった。

部屋を出て、廊下をひた走る。馬上から眺める景色のように柱や扉、庭の木々が消し飛んでいく。

背景は墨を流したような夜であった。
月は姿を隠し、遠く瞬く星を焦がすがごとく方々で炎が燃えさかる。つるぎが打ち合わされる音、絶叫。その中に幾つか聞き知った声があったように思い、縺れる足を叱咤して駆けた。


連れてこられたのは離れにある納戸である。
父母によって立ち入りを禁じられていたが、兄姉や妹たちと隠れん坊をしたり、勉強の時間を告げに来る家人から逃げ回ったりするのによく使っていた、見慣れた場所だ。
きれいに磨かれた爪先が、扉の縁に掛かる。板木が逆剥けて棘を生やし、母の指を無遠慮に刺した。ぷつりと玉を作った血が残像となって、いつまでも少年の脳裏に残った。そのそぐわなさは、今夜の異常を示しているかのようだった。


+++


母が立ち去ってからどれくらい経ったろうか。

(「…さむい」)

膝を折り、足を抱え込んでかじかむ手に息を吐きかける。
春の庭、春苑にあっても冬の巡りは流石に冷えた。夜ならば余計にだ。
少年の寝所は使用人が火を熾してくれ、臥榻(しんだい)も温かな蒲団が用意されているので、寒さを感じることはない。しかし今は、薄い夜着一枚に室内履きとして使っている布の沓のみ。木の板で囲われているだけの納戸は、風がよく通り、衣越しにも冷気が突き刺さる。

(「母様は、どこまで行ったんだろう…」)

父、それからきょうだいたちを連れてくるのだと言っていた。
時間を惜しんでか、それともいつものように余計なことを聞かせるまいとした為か、少年は身に起きていることの詳細を知らないでいる。ただ理解できるのは、邸へ火が掛けられ、身を隠さねばならないような大事が起きているということ。剣や戈が打ち合い、男の怒声や女の金切り声が響く庭は読み物で見た戦場のようだった。
胸に潜ませた守り刀へ、つい手が伸びる。重なる糸の所為で厚みの増した、やや硬い感触が返ってくると、僅かなりとも拠り所が出来た感じがして、安心できた。


溜息を吐いたところを見計らったように、―――がたん、と戸が鳴る。


「……!」


(「母様だろうか」)


がたん、がたん、と繰り返し戸が動く音がした。
どうやら閂を外そうとしているらしい。

「―――っ、」

少年は戦慄した。母であれば、家人から鍵を預かっているだろうから、閂を無理に壊さなくても扉を開けることができるはず。そうでなくても、少年が怯えないように一声掛けてくれるはず。父やきょうだいたちを伴っているのなら尚更だ。

(「怖い!」)

恐ろしかった。恐怖で叫び出したいとすら思った。刀袋を握る手は膠のごとく固まり、折った膝の裏側はわっと汗ばんだ。体を出来うる限りに縮めて戸袋の影に隠れる。もし開いても、姿が見えないように。息を潜めていれば、灯りさえ差し込まれなければ、きっと何とかなる。
そう己に言い聞かせる。さもないと、今にも心臓が破裂しそうだった。

開くな、開かないでくれ。目は瞬きを忘れ戸口を見つめ続ける。その祈りも虚しく、鈍い音をたてながら扉は横へと滑った。



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