Deus ex machina



涙のかたちをした孔雀石が、少年の鼻先で揺れた。
ビラ、と呼ばれる薄い板が幾つも吊り下がるそれは、母がもっとも気に入りの耳飾りだ。黄金の台座に、少しずつ色合いの違う深い緑が縞模様を作る。磁器を思わせる、白い膚には確かに、よく映えた。

「よろしいですね。母が迎えに来るまで、決して出てはなりませぬぞ。声をあげてもいけません」

返事をしようとすると、冷たい手が即座に口を覆う。少年は目を驚きに見開く。

蝶よ花よ、と育てられた母は出自が正青旗であるためか、滅多なことでは感情を露わにしなかった。口脣を閉ざし、柔らかく微笑むのみ。それも、扇の翳からそっと、簾越しの薄日に似た風情で。
母の人生の上に、およそすべての悪は欠片も存在しないかのようだった。
―――その掌が、小刻みに震えている。

「守り刀はお持ちですね」

黙って、頷く。
袷の懐から取り出してみせたのは、五歳のとき、祝いに貰った守り刀だ。
目の醒めるような青の布地に、金糸銀糸で降龍と黒灰(くろばい)の花を縫い取った巾着へ入れてある。毛羽立つ白い花弁は、父が護る樹木のそれだ。どんなに恐ろしいときでもこの刀を握り締めれば力が湧いてくるように思う。
強張った頬を懸命に緩ませ、母は、泣き笑いのような表情をつくった。

「あなたはいい子です。大丈夫。ここに入っておいでなさい」
「…かあさま、」

ようやく声を発した己に、彼女はひとみの動きで続きを促す。
剣戟の音、何かが燃える音、人の怒号が一時も止まない扉の向こうを振り返ることも忘れずに。

「兄様や…姉様は。それに、妹妹(めいめい)は」
「ええ、ええ。すぐに連れてきますよ」
「と、父様は…」
「必ず、いらっしゃいます」

必ず、の部分を特に強い声音で言うと、母の指は、巾着を握る小さな手を励ますように包んだ。下人に指図をし、花を生け、髪を梳いてくれるやさしい手指。やはり、隅々まで緊張に固まっていた。
母様、と今一度繰り返す。彼女は殊更にゆっくり頷く。夜目にも白い床袍を纏った細身の体が僅かに後退ると、左右から闇が迫ってきた。

乾いた音を立てて、納戸の扉は閉まった。



少年の与り知らないことであったが、少年の家と、父親の弟―――叔父の家はこのとき激しく対立をしていた。
彼にとって、叔父は明るい、冗談をよく飛ばす好人物で、心配りのきいた手土産を携えては邸を訪う、大好きな「叔父上」であった。豪放磊落な父の方がよほどに恐ろしい。耳を打ち据える胴間声も剣の稽古だと木刀を握らせる掌も、あまりに大きく、近付きがたかったのだ。

兄弟互いに庶流ではあったけれど、宗家を支える有力な家柄である。
特に少年の家は子宝に恵まれ、花護の資質をもった子も多かったので、縁を結ぼうと頼む声はひきもきらなかった。
少年の妹はまだ二桁にも満たない歳だ。にも関わらず、先だって婚約の儀が結ばれた。
相手は同じ紺旗の出だが、将来執政になるかもしれぬとまで言われる、理力の持ち主らしい。家中の者がめでたい話に沸き返り、既に結婚したかのような宴までもが催された。

仰々しく着飾られ、輿に乗せられた妹の姿を見ても、そんなものか、としか思わない。
兄も姉も、皆、同じように幼い時分から婚約者を定められていたからである。順番は前後したけれど、いずれ己もどこかの旗の公主と娶され、婚姻を結ぶのだろうと。

妹の婚約が決まる前後から、邸の空気がどこかぴりぴりと張り詰め始めた。
夜半、邸内を見回る家人は物々しい格好をしていたし、少舎の行き来に付く護衛の数も増えた。が、何故か、と問うことはしなかった。誰に訊いたところで、ほんとうの答えをくれるわけはない。十を幾つか越えた歳だったが、そのあたりのことは心得ていた。
ただ、言いつけられたように、外出の際の出入り、少舎の友人から貰うお菓子や果物の類にはよく気を留めた。

そして、今夜を迎えた。



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