(15)
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湯殿を使ったあと、流石に制服を着込む気にはなれなくて、薄いローブに似た衣を羽織る。上品な薄青色をした、浴衣みたいなやつ。肩や、腰のような、膚に密着する部分が微妙に透ける。落ち着かないことこの上ないが、ぜいたくは言えない。いつも置いてあるということは、ここでは当たり前なんだろう。
中で幾度も出されて腹がおかしくなりそうなものを、連暁がおれへ注ぎ込んだ精はからだの何処かに吸収されているようだった。掻き出そうとしたって、指が触るのは僅かな体液のみだ。ここに来てから体内構造まで変わってしまったのだろうか。最悪すぎる。
初めは血眼になって探り、時間が掛かりすぎて心配した侍従が乗り込んできた。絶望を通り過ぎた後はもう、諦めしかない。普通に入浴するように風呂へ入り、髪や体を洗って出る。次なる絶望は腹が膨れたらどうしよう、だな。笑えない冗談を思い浮かべ、口脣を歪めた。下痢にならないだけ、まだマシだ。
おれが目下起居しているこの至聖所――紫微宮(しびきゅう)という美称がついている――は、壁が非常に少ない建物である。等間隔に置かれた柱と、梁に吊られたカーテンみたいな布が部屋や区画を分けていることがもっぱらだ。風がよく吹き抜けるのは嫌いじゃなかった。腰に巻いた帯をなびかせながら、素足でぺたぺたと歩き回る。
さっきセックスした分で、あと、どれくらい保つのだろうか。どれくらい、やらなくて済むのだろうか。
冬の庭師、北君(きたのきみ)は「たのしめばいい」と言う。
(「…おまえがやれば」)
夏の庭師、炎斑帝(ほむらのみかど)は「受け入れなさい」と言う。
(「いつかは終わる、ってことか」)
秋の庭師、秋好宮(あきこのむのみや)は悪魔の囁きを口にした。冴え冴えとひかる銀色の目を眇めて―――捨ててしまえよ、と。
『この世界がきみの属するところじゃないというなら、どうなってしまっても構わないじゃないか』
(「…いわゆる反政府主義者ってやつかな…」)
三人三様のアドバイス(好き勝手言っているだけ、とも言う)を思い出しながらぶらついている内、露台に出た。
写真で見た、ギリシャの遺跡みたいな一面の石床に、濃い緑と色とりどりの花が咲き乱れている。流れる水は縁から下界へと流れ落ちる。空は、青い。
動きにくそうな衣をものともせず、しゃがんで土いじりをする宮宰へ声を掛けた。木蓮の花精、待月は顔を上げると、無機質な美貌を僅かに緩めてくれた。
「…春御方。お加減は」
「…そこそこ」
「それは、重畳」と、スコップを土に突き立てながら彼は頷く。「安心いたしました。飲むものを用意させましょう。ご希望は」
「水でいいよ。あと、自分で取りに行く」
これには返答をせず、彼は、脇にあった鉢から花の株を丁寧に取り出す。赤い地に、白いまだらの模様がついた大きな牡丹。とてもきれいだ。周囲に植わっている他の牡丹に見劣りするところが全くない。まあ、花の綺麗さに優劣なんてないのかもしれないけれど。
いつからか、この小庭は牡丹だらけになった。大体は待月が植え、せっせと面倒を見ている。時々、連暁も手伝っているけれど、一度枯らしてしまってからは、宮宰の監督下でなければ触らせて貰えなくなった、らしい。
待月が名前を付けろというので、思いつくままに捨璃園(しゃりえん)とした。あっちに居たとき、何かで訊いた単語かもしれなかったが、特に意味はない。
庭師が名前を与えるのは重要な意味があるという。存在を認められ、存続を赦されるのだと。それらの負荷はおれに戻ってくるのだから、蛸が自分の足を喰っているようなもんだ。
でも、この庭は好きだ。
牡丹が、というよりは、ここに満ちた静謐な空気が。
捨璃園にいるときは、どうしてか下界の声が薄らぐような感じがする。花たちはただ、咲いている。そこには、怒りも、憎悪も、哀しみも苦しみもない。
気紛れに沓を履いて降りてみれば、とりまく空気は一層、やわらかくなった。
「…待月って、木蓮の花精だよな。牡丹の面倒まで見られるなんて、すごいね」
待月は土を盛り終え、慎重な手つきで根元に如雨露を傾けているところだった。感心して褒めたつもりが、花精の柳眉はきりりと吊り上がる。彼は「ええ」と言った。えらくドスの効いた声で。
「牡丹は別におります。これは…いわゆる尻ぬぐいというやつですな」
「…は?」
首を傾げながら辺りを見渡す。
…牡丹は風を受けて、豪奢な花弁を揺らすだけ。
>>>END
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