(12)
「千里(せんり)さまぁ」
春苑の右の玉座を埋める者にして、百花王、駿河台匂桜の精。千里は、そのほっそりした肩をびくりと揺らし、背後を振り返った。数歩先を歩いていたつがい―――執政の鶯嵐(おうらん)が掌で己のまなこを覆っている。また来たか、と呟く彼の心に、そのようです、と返事をした。とりあえず笑顔を浮かべ、歩み来る花護へ会釈をする。
「…これは、煬大夫。如何なされましたか?」
「あの、折り入ってお願いがあるのですけれどぉ」
婀娜っぽいしなを作りつつ現れたのは都察院左房の大夫、牡丹の花護、世高(せいこう)である。煬家の跡取りでもあるため、煬世(ようぜい)、と呼ばれることもある。
煬家の子にして七番目の息子であったけれど、幼い頃、当主の座を巡って私戦があった。結果、彼を残して煬家直系の血筋は絶えた。家財多く、広大な領地をもつ煬を欲しがる者は数え切れないほどだったが、宗主たる謝家の手厚い後ろ盾もあり、順当に世高が嗣子(あとつぎ)となったのである。
この世高、私戦の折に叔父の悪逆の犠牲となり、口に出すのも憚られる辱めを受けた、と言われている。彼が否定も肯定もしないから、人々は余計に面白可笑しく話を作る。世高が女装を好み、女のような喋り方をするのも、噂の尾鰭背鰭を増やす原因だ。とんとん拍子に出世してきた若き花護をやっかんで、「羅切大夫」と下世話な揶揄をする者まであった。
千里はなぜ、本当のことを世高が主張しないのか、理解が出来ない。
菫色の瞳を情感たっぷりに瞬かせながら、大夫はひとつの鉢を取り出した。朝議が終わるのを見計らって、待っていたのだろう。初めてのことではないので、想像は易い。
「この牡丹を、群青さまにお渡し下さいませんか」
差し出された小さな陶器の鉢には、重たげなこうべを垂れた牡丹が植わっている。あざやかな紅色に白の斑(ふ)が入った花弁は大きく、艶やかで見事な品だった。己の花護の手にある所為か、尚のこと誇らしそうに映る。
「…これはまた、見事な。世高殿のお育てになる牡丹は、本当にうつくしい」
掛け値無しの讃辞を贈ると、大夫の斗篷(マント)がぶわっと膨らむ。
巣から顔を出す雛のような仕草で、可憐な容貌を見せたのは阿僧祇(あそうぎ)だった。
牡丹の花精はさも得意げに笑う。
「そうでしょうとも!だってあたしの煬世が丹精込めて育てたんだから、綺麗にならない筈がないのよ」
「こんにちは、阿僧祇(あそうぎ)」と千里は微笑んだ。「貴女の言うとおりだね」
「あら、嬉しい」
世高はころころと笑声をあげた。役者か、と思うくらいに板に付いた女ぶりである。
「では、百花王。お願いできますでしょうか」
「世高」
先を進んでいた筈の鶯嵐が戻ってくる。貴公子然とした甘い顔立ちに、困惑をのせて。
「毎回言うようだけれど、庭師への供花は誓春殿(せいしゅんでん)を通してくれ。千里(ちさと)へ渡されても困る」
誓春殿は礼部の管轄で、庭師を祀る神殿である。
景陵に本殿が、各地に小さな社殿が造られている。日々、民が神に祈りを捧げるときはこれらの神殿に参詣するのが慣わしだ。勿論、花護も例外ではなく、旅の道行きを祈ったり、病気の平癒を願ったりするときは皆、足を運ぶ。
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