(8)
驚きに開いた口を、閉じ損なった。
少年はぽかんと大口を開けていたが、そんな己のざまにすら気が付いていない。
恐れに歯の根が噛み合わなかったのは、先ほどまでの話だ。
目の前に突然、人が現れたのである―――何の前触れもなく、唐突に。
「…やめろ」
「ひ、あ、あああああっ!!」
甲高い叫びは少年のすぐ後ろから上がった。これにも驚いた。
肩越しに見れば、白皙をさらに青ざめさせた澄鳴がへたり込んでいた。
淡い紫のひとみは、少年とあるじの間に割ってはいる格好で現れた人物に、釘付けになっている。
そのひとは、少年よりも幾つか年上に見えた。
黒く短い髪と、薄い黄味を帯びた膚。白い羅紗の衣に、ぴったりとした濃緑色の袴を穿いている。首元からは、比礼に似た赤い帯をぶら下げていた。沓は黒。革をよく磨いてあるのか、辺りを焼く火の海を反射してきらきら輝く。
衣袍というものは大抵、体の線に対して緩く作ってある。今、眼前にいるひとの装いは、およそ見たことのない、不可思議な格好だった。
斜め前に立つ彼の横顔を、花精に倣って食い入るように見つめた。青年はこちらをちらとも振り返らない。掛けていた眼鏡を外し、胸元に仕舞った。
…息を呑む。
蒼穹を写し取ったかのような青の双眸が、射殺さんばかりに叔父を見ている。
「…いい加減にしろ。何やってるんだよ。こんな、小さい子に向かって、―――あんたは!」
「お、お、お前…貴様は…」
叔父もまた突然の乱入者に混乱していたようだった。怒鳴り付けられて正気に返ったらしく、戸惑いながらも手にした剣鉈を青年へと向ける。
発した声で、彼がやはり年若いのだと知れた。少年の三つ上の兄と同じくらいだろう。どうやってこの場にやってきたのかは分からないが、叔父の相手は到底務まらない。青年の体躯は薄く、短い袖から剥き出しになった腕は剣を握る武人のそれとは程遠かった。
「な、なんだ。とにかく、どけ。いや、退かずともよい。斬り捨ててくれる」
花精の手に捕まえられていることを、失念していた。
引き摺る裳裾に構わず、少年は蒼い眼の青年を突き飛ばそうと思った。叔父は怖い、羅刹とやらを施して、自分に恥辱と絶望を味あわせようとしている。
同じことを、このひとにしでかさないとも限らないじゃないか。
(「母様は、」)
母は、多分、きっと駄目なのだ、駄目、なのだ。
そうであるなら、尚更、青年を救わなければならない。
ひとりでも多く、このわざわいから逃げて欲しい一心が、少年を突き動かしている。
「どこのどいつとも知れぬが、…――邪魔を、するなぁああ!」
「う、ぎ…っ」
花精はいつの間にか少年を解放していたけれど、後ろ手を縛られた格好で駆けようとしたために無様に転げてしまった。砂利がやわらかな頬や顎を擦り、涙目になりながら慌てて上体を起こす。
そこへ、白い塊がどさ、と落ちてきた。
「……?」
太い腕、帯を巻いた腰、目玉をかっと見開いた顔はおののきに凍り付いている。
塊は地面に衝突した途端、呆気なく割れた。
…初めは、石膏かと思った。
(「違う」)
塩だ。塩の、塊。
叔父の姿を生き写しにした白い塊は、次の瞬間、粉々に粉砕され塵と消えた。
少年の視界を閃光が過ぎる。
光跡を追えば、眩むばかりの輝きが刀身の形をとって青年の手に宿っている。雷電を纏うそのつるぎは、彼が億劫げに振り払うと、これもまた泡沫のように消えた。
青年はかつて叔父であったものの残骸を一瞥し、踵を返した。視線の先には座り込んだ澄鳴がいる。
「…は、あ、は、は、おんかた、さま」
「……」
人形のように整った顔を滂沱の涙でぐちゃぐちゃに汚し、嗚咽を漏らしている。清楚で凛とした、平生の姿はどこにもなく、赦しを乞う幼子の態で彼は跪いた。
「お赦し、ください。御方さま。わ、私、申し訳…」
「ほんとうは」と青年は言った。とても、静かな口調で。「…本当は、悪いだなんて、思ってないんですよね」
花精は悲鳴をあげた。
白い羅紗に包まれた肩がふっと落ちる。まるで、彼が罪を犯したみたいだ、と思う。
「あなたは、つがいに従うことで自分の種が繁栄すると判断した。だから、命令を呑んだ。そうでしょう。あなたは、あなたがたのルールに則って動いているだけだ。だから、そんな風に謝らないで。意味がないんだ、そんなの」
「――…後生でございます、私をお厭いにならないでください…!」
「澄鳴、…行ってください。胎宮(はらみや)に。あなたの生まれたところに」
風に煽られて白い塊は少しずつ形を失い始めていた。さらさら崩れるさまは、麻袋から無造作に出した塩の山を彷彿とさせる。
やや尖った作りの沓の先へ、花精の指が救いの藁を求めるように伸びた。
青年は拒絶の言葉を口にはしなかった―――触れるのを避けて、僅かに後ろへ退いただけ。
振り返り、砂利と混じり合う塩の粒をもう一度見つめている。先ほどより遙かに感情のこもった眼差しは、後悔の色を浮かべていた。
「あなたの花護は、おれが…殺して、しまったから。…早く」
帰りなよ。
彼がそう告げた瞬間、海棠の花精は影形もなく、忽然と消失した。
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