(6)
…娶せの儀の、衣装。
着付けを手伝うはずの花精の、不在。
眼前の光景が何よりの証拠だ。それなのに男の口からしかと聞きたいと思った。否定して欲しかったのだ。違うのだ、と。ただ、巡り合わせが悪かったのだと。
(納得する筈もない癖に。)
「…その、衣…」
周霖は何も答えない。重い剣鉈を取り上げると、鞘へ滑らせ腰へと落ち着けた。
俺は口脣を湿らせ、こんがらがる思考と言葉からどうにかして問いを選り出そうとしていた。
こ、と硬い踵が床を踏む音がする。近付く足音に急かされるように、無理矢理口を動かす。
「…翡榮(ひえい)が、枯れたと」
「誰から訊いた。…ああ、」
医女か、と呟く声は平坦だ。それで逆に――おかしな話だが――胆が据わった。いつの間にか近くなった距離を恐怖することも忘れ、花護に食って掛かる。
だらしなくぶらさがる襟の裏を掴んだのは思わずのことだった。周霖は振り払いもせず、俺の好きにさせている。ただ、涅色のひとみは瞬きを忘れたように、ひたとこちらを見下ろしたままだ。
「どういうことだ!先日までは…そんな素振りは!」
数日前の深夜、邸の庭にある鐘楼に上った。景色が見たい以外にも理由はあったのだが、とにかくひとり落ち着いて考える場所が欲しかったのだ。よく手の行き届いた檻ではなく、風が強く吹く天に近いところで。
邸内は脱走した囚人を捜すべく大騒ぎになり、あるじまでもが駆り出される羽目になった。…俺の我が儘が引き起こした結果であった。
出る機を逸しておろおろする俺を見つけたのは周霖。
怒鳴りこそしなかったが、その憤りは煮えくりかえる熔泥に似て静かで、決して冷めることのない熱を帯びていた。
『ご無事で、よかった』
赤子のように抱え上げられ、己の足で立つことも赦されない。仕方なく、情けない格好のままで謝罪を繰り返していると、現柳精である翡榮が心底案じていた様子で現れた。夜着を羽織る白い膚には点々と情交の痕があった。花護の伽をつとめ、睦み合ったあかし。
それを覗き見てしまったからこそ、鐘楼の天辺で頭を冷やしたいと思ったのに。
黒い髪、鮮やかなみどりの瞳。顔立ちは花精らしく端正で、俺とは到底比べるべくもない。
柳は本来、理力が強く耐久性にも優れた種だ。翡榮も例外に漏れず、風を操るのに長けた花精であったらしい。友人の煌々(きらら)曰く、「俺と喧嘩できるくらいにはいけるな」とのこと。
その彼が。何故。
「とても衰弱しているようには見えなかったのに」
「…配城の外れに行った」
予想に反して、周霖は会話をする気があるようだった。お前には関係ないと、突き放されて終わるかと覚悟していた俺は、喧嘩を吹っ掛けた側であったのに、些か呆けた面で相手を見返した。
「そこで、三日ばかり”狩り”をした。…でかい蜘蛛蟲が巣を作っていたのさ。卵が孵って餓鬼がわんさか産まれていた。親は俺が面倒を見たから、あれには雛を任せた」
「…卵…、…雛」
あれ、とは、翡榮のことに他ならない。
―――配城での”狩り”は俺も経験があった。蜘蛛蟲狩りもだ。繁殖期、雄を喰らい尽くした雌蜘蛛はその肉と巣に掛かる餌を糧に子どもを産み、育てる。卵の数も、孵化する子の数も凄まじく、大抵は卵のうちに油を撒き、火を放って斃す。親を先に片付けていることが前提条件だ。だが、卵が既に孵っていたのなら、子といっても象ほどの大きさにもなる蜘蛛蟲を相手にしなければならない。一匹、二匹ではない、百を超える数だ。母蜘蛛は空腹と子を護ろうとする本能で非常に気が立っている。逃げ出す可能性はまず皆無である。
「…まさか、昔のように理力を引きずり出したんじゃないのか。翡榮が術を執行している最中も、構わずに」
「昔?」と男は、嘲笑を滲ませた、やや高い声音で繰り返す。「…昔とは、いつだ?そんな漠然とした物言いじゃ何もわからんな」
「周霖!」
答そのものだ。
彼が「花喰人」と呼ばれ、花精たちに恐怖されたのは、どんな大がかりな術を使っているときでも、理力が底を尽きかけていても、問答無用で己のために花精のちからを吸い上げるからだった。
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