(5)



「どのような夢を御覧になったのですか」

背凭れ代わりに枕を敷き込み、具合をみる恬子の声はやさしい。小さく礼を口にすると、彼女は黙ったまま微笑みを浮かべた。その目の下に青黒く縁取られた疲労の翳を認めて、俺は眉を顰めた。疲れ―――だけじゃない。涙袋が腫れぼったく膨らんでいる。
今はそこに触れず、問いに答えた。

「…雨が降っている。今みたいな、雨なんだ。音は聞こえない。俺は執務室の…、そう、都察院の執務室に居て景色を眺めている」
「いつものように?」
「ああ、」そうだ。いつものように。「隣に人がいたけれど、確かめなかった。それが誰なのか。何を話したのかも、記憶には。でも、悪い夢じゃなかった」
「悪い夢じゃなかった?」
「うん、」

厭な感じはしなかった。懐かしく、切ない。手を伸ばせば届くところに、相手の手があった筈だ。どうせ醒めてしまうのなら、触れておけばよかった。繋いでしまえれば。
そうしたら、きっと顔を見ずともわかったのだ。穏やかに語りかける相手が、物静かな老官吏だったのか、獅子に喩えられる稀代の花護であったのか。

「不思議な感覚だな、夢というのは。確かにそこにいたのに、目が醒めてみれば何も残っていない」
「わたくしもよく思いますわ。焼き菓子をもう少しで食べる、というときに起きてしまった日には、どうして一齧りなりともせなんだかと、口惜しくなりますもの」
「…はは。恬子らしいたとえだ」
「もう、伎良さまったら」

口脣を尖らせてむくれてみせるさまは、久々にみた、彼女に似合いの快活な表情だった。すぐさま曇らせてしまうのが、本当に辛い。だが、気付いてしまったからには捨て置けない。

「恬子」
「…えっ、はい?」
「…なにがあった」

何も、と言いつくろおうとする恬子の、秀でた額から頭巾にくるまれた髪を撫でた。かつて俺に、老いた花護がしてくれていたように。

「夜通し泣き腫らすようなことがあったのだろう。障りがなければ、教えてくれないか」

+++


板敷きの廊下が鳴るのも構わず、ばたばたと走る。部屋を出しな、戸口に居た使用人に制止されたが、突き飛ばす勢いで出てきてしまった。目指すところは、転化してからほとんど近寄ることもなかった場所、かつて寝起きしていた部屋だ。

「…周霖、周霖っ!居ないのか!」

両開きの扉を開け、はられた布の帳を払いのける。青い絨毯を踏み、薄ぼんやりとした空間をねめ回した。怒りに目が眩んでいたのだろう、正気であればできないことである。その証拠に、探していた相手が思いの外近くにいたことを悟り、固まってしまった。

見下ろす男の双眸は、凍てついて冷たい。

「どうした」
「…っ、」
「何用だ」

周霖。
名前は舌に乗せた瞬間、膠漆となって張りついたようだった。

柳の花護は、独り身支度をしていた。紺青の官服の上を纏い、釦を留めている最中に俺が飛び込んできた、という態だった。箪笥の脇に立てかけられた大きな剣鉈が、弱い光をはじいて鈍くきらめく。研いだばかりだったのか、鞘から出されたままのそれが不吉に映った。
…寝室への扉は、開け放たれている。


俺が呼吸を整えている間(自らの足へ動け、と命じている間)、周霖は雑な仕草で襟元手前までの釦をはめ終えた。喉仏から鎖骨までが露わになっているさまに、つい指が伸びそうになる。
礼装、喪装、平装など官吏の衣袍は多くの種類を持つが、今、男が着込んでいるそれは儀典装であった。戴冠の儀や、人事院からの辞令、そして何よりも、娶せの儀に纏う最も尊い衣袍だ。神聖な色とされる青で染め上げられた布地に、鶯と金色の綾糸で柳の枝葉が刺繍されている。帯は紺。履(はきもの)は黒で漆塗りの木沓となる。俺が周霖と初めて逢ったとき彼が着ていたのも、柄こそなかったがこの衣だった。



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