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周霖の意向もあって、景陵にある私邸の一室に引きこもる俺を、恬子は毎朝、そして退庁の後毎晩、往診に訪れた。最早花精ではなく、上司でも、そもそも官ですらない人間を彼女が見舞う義務はない。
初めは転化直後の混乱もあり、頼もしく待っていたのだが、時が経つにつれて連日連夜、足を運ぶ姿に済まなく思う気持ちが強くなった。もう大丈夫だ、と言っても聞く様子はない。

『根拠もなく大丈夫だ、などと仰らないでくださいまし』

やや太目の眉毛を吊り上げ気味にして、医女は怒気を露わにした。

『まだご自身の体の舵取りすらままならないのに、軽々しく。わたくしが参りませなんだら、お食事すら難儀しますわよ』

確かにその通りだった。
水と花餅しかまともに摂ったことのない胃袋は、人間が当たり前に食べる肉や魚、砂糖、油などの調味料にことごとく拒否反応を示したのだ。無理に口に入れても吐いてしまう。かと言って、高価な花餅を食べ続けるわけにもいかない。目下の俺は、文字通りのただ飯喰らいなのである。
恬子によれば生まれたての赤子と同じで、少しずつ慣らしていけば、いずれは普通に食せるのではないかとのこと。
食事はまだ何とかなるだろう。問題は体、それ自体である。
花精のいのちに関わる研究は稀少、転化した花精のその後に至っては最早資料すら存在しないのだ、と彼女は言う。

『国房さまの伝手を辿って秋廼にも問い合わせてみましたが、まず、転化そのものが、事例の少ないことですので』

人間に成ったあと、体の組成はどのようになるのか。
例えば、子どもを作れるのか、産めるのか。
病は、その寿命は。何一つ、わからない。

『官職にないことや、籍のないことよりもそちらの方が余程に大事です、伎良さま。ですが、…これも群青さまのお導きでしょう』

返答なく俯いた俺へ、若き医女は腹を括ったように宣言した。

『恬子が文観老師の徒弟でおりましたのも、唐桃の死に立ち会いましたのも。…都察院にて、柳のお二方と出会いましたのも。きっと、このためだったのです。
貴方様を死なせはしません。人として生まれたのなら、生きてくださいませ。誰が希むと希まないのといった話ではございませぬ』

恬子の気炎は周霖の無関心もあってか、意外にもするりと受け入れられた。
邸で働く古参の者ですら「要らぬ配慮をする」と減らされていく中、医女は通いの専属医として、この部屋を訪い続けてくれている。


雨はまだ、止む様子をみせない。

「もしかして、ゆうべは眠れませんでしたか?」

恬子は一連の作業を淀みなくこなした。脈を取り、袷から出した帳面へ状態を書き付ける。顎の下を軽く押したあとで瞼と涙袋を引っ張る。促されるまま舌を出すと、娘は安心したように頷いた。

「大丈夫そうですね。よかった」
「…夢をみたんだ」
「…夢?!」

その安堵の溜息も、俺の一言でぴたりと停止した。驚愕に見張られる灰色の瞳を見て、頷く。

「多分、あれが夢なんだろうな。…聞いたことはあったけれど、見たのははじめてだ。確かになにか起きていたのに、目が醒めたら煙のように消えてしまった」
「伎良さま…」

花精は夢を見ない。
人が、眠りの間に足を踏み入れるもうひとつの世界を、花たちは知らない。そこで空を飛んだり、喋る魚を見たり、失った誰かに再会したりするのだと言う。
どうして夢を見るのかはわからないが、何かの暗示だとか、逢瀬を願う相手が居るのだとか、人間はその内容から様々な徴(しるし)を得ようとする。夢占(ゆめうら)を生業とする者もいて、高名な占い師に通い詰める旗人も少なくない。
周霖は彼らを横目に嘲笑っていた。己の眼前にあるものを今少し見直せば、金を払い、形のないものを尋ねずとも拓ける道はあるだろうにと。

(「…周霖、か…」)

猫も杓子も彼のことばかりだ。俺のすべては彼を中心に動いていたから、当然だった。




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