(3)



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ひたひたと、硝子の上を雫が伝い落ちていく。止め処もなく滑り落ちる流れは、まるで泪のようだ。そんな詩的に過ぎる表現が思い浮かび、苦く笑った。仮に泪だとして、一体誰のものなんだ。春御方(はるのおんかた)か、柳の種か、

―――それとも。

俺の嘆きは既に涸れ果てて、赤く不吉に色づいたなみだしか流せない気がする。たとえこの両目を濡らしても、誰を潤すことも、救うこともできない。ただ、いたずらに怒りを買うだけだ。


叩扉の音がして、返事をするいとまもなく人が入ってきた。まさか部屋のあるじが起きているとは思わなかったらしい、はっと息を呑んでいる。

「…おはよう」
「伎良さま、」と恬子(てんこ)は慌てて頭を下げた。「申し訳ございません。…起きておられるとは思いませんで」
「…まだ大分早いからな。俺こそ、朝早くから、手数をかけてすまない」

告時塔の鐘は先ほど五つ鳴ったばかりだ。流石に明けてはいるが、藍を薄めて延ばしたような空は、雨を負っている所為もあってどこか暗い。
これが晴れの日であれば、天は人の家にほど近いところからだんだんと白んでいく。青春宮と建礼舎の輪郭は黄金色に輝き、次第に太くなる。それが春苑の朝。何が起きても変わることのない風景だった。
降りしきる雨の幕の向こう、浴びる朝日もなく、眠る獣のように蹲っているふたつの建物を見るともなしに見る。庭にある鐘楼がふと恋しくなった。どんな天気であっても、俺にとって、あそこからの一望は何にも勝る眺めだから。
恬子が椅子を引き、腰掛けたのをかわきりに、俺は夜着の袖を捲って手首を出した。

都察院左房の医女、乃木坂恬子(のぎざかやすこ)。
秋の庭出身の血族をもつため、正しく発音すれば秋廼風の発音になる。春苑においてはただ、名前のみで「恬子(てんこ)」となる。
黒髪、灰色の瞳をもつ若い娘は、変わり者の師匠を持つ為か、彼女自身の信条によるものか、花精のいのちを酷く惜しんだ。ともすれば異端扱いをされる研究に、師ともども深く関わっている。即ち、個としての花精のいのちを延ばす学究である。
怪我の治療に始まり、人に行うような手術が可能か否か。麻酔。苦痛を緩和する薬剤の調合。その内容に、同じ医士方からの苦言は多い。
花精は、枯死をしても次代が立つことで変わらず役目が果たせると考えられており、掛かる病はすべて死病で、その花精の寿命なのだと判断されてきた。ゆえに、ひとりの花精に執着する作業は無駄、もしくは天の定めた摂理に反することなのであると。

恬子が個としての花精にこだわる理由は、必ずしも師・文観(ぶんかん)の影響だけではないのかもしれない。まだ若い花護で、医女でもある彼女の手から、魄落したのは四人の花精。
「花喰人」周霖につがっていたゆえに、理力を奪われ枯れていった唐桃が三名、

―――それから、俺だ。

花精としての生を失い、人に転化した、それが俺である。
幸いにして種そのものに災いが及ぶことはなく、間隙を赦さぬかのように新しい柳が生まれた。彼は既に周霖のつがいとして傍らを占めている。うつくしい青年の姿をした花精とすれ違うたび、心に渦巻くのは無事につがいが現れた安堵、柳の流れに穴を空けてしまったという罪悪感。羨望、そして―――嫉妬だ。
花であれば生じるはずもない負の感情は、出口を求めて心身を苛んだ。一方の俺は、そいつの尻尾を掴み、逃がすものかと体を丸めて抱き込む。いつ終わりを迎えるかもわからぬ生だが、すべてこの中に仕舞い込んで、蓋を。
第一、誰に、何を求めるというんだ?ただでさえお荷物で、職も身分も、籍すら持たないのに。



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