柳に雨



ひたひたと、硝子の上を雫が伝い落ちていく。いつやむとも知れない雨は景陵の街並みを潤し、游水の嵩を増やし、そして青春宮を水の帳で囲っていた。執務室の窓越しから飽かず景色を眺めている俺の隣に、周霖はゆっくりと歩み寄った。

「…長雨だな」
「厭な季節だ」と花護が唸った。「これだから夏の巡りは面倒なんだ」
「そうかな…」

どういう訳か、俺は雨の日が好きだった。花精であれば誰でも同じかと思いきや、必ずしもそうではないのだという。牡丹の阿僧祇(あそうぎ)は少しならいいけれど大雨は嫌いだと言うし、皐月の花精、緋鞘(ひざや)は僅かだが頭痛をおぼえ、百花王の千里(せんり)さまに至っては疲れやすくなると零していた。

前のつがい、姶濱(あいびん)によれば柳と雨は相性が良いのだとか。秋の庭のかるた遊びに「柳に雨」と名付けられた絵札があるのだ、と教えてくれたことを思い出す。
図案はこうだ。
柳の木の傍らに、傘を差す旗人が佇んでいる。彼はひとりではない。小さな蛙がいるのだ。蛙は、男をよそに枝垂れ掛かる柳の葉へ向かって必死に飛び跳ねる。
水溜まりを踏み、雨に濡れるのも厭わず彷徨う俺を窘めて、老いた花護は嘆息したものだ。貴方は聞き分けが良い子だけれど、濡れ鼠になりたがる癖だけは直らないのですね。その有様は鼠じゃなくて、雨蛙の域だわ。

『ああ、それは花札ですね』

秋廼出身の花護、皐月の国房(くにふさ)に話したところ、懐かしそうに説明をしてくれた。
姶濱が言ったのは「柳に道風」という種類の札であること、他にも札は三枚あり、面白いことに「柳」は秋の巡りである霜月に配されていること。

『弥生は桜、卯月は藤といったように、月ごとに象徴する花が決まっているのですよ。まあ、幼い頃は賭けに興じる大人の横で、意味もわからず猪だの、鳳凰だのの絵札を見て喜んでいたぐらいのもんで』

四十八枚ある中でも、柳の札は少し変わっていて、「化け札」と呼ばれることもある。
中でも「太鼓に鬼の手」という札は特に不思議な図柄なのだそうだ。雷の轟く中を不気味に太く大きな手が太鼓を掴もうと、天を掻き回している絵。赤と黒の二色のみで描かれたそれが子ども心に恐ろしく、札を引くたびついべそをかいてしまって、いつも手の内が読まれてしまったのだと。

国房の話を聞いて、奇妙な心持ちになった。
天水は、このからだを溶かすがごとく、やさしく穏やかに包む。現世でも、小さな札の中にあるまぼろしの世界でも、雨は柳を護ってくれている。そして、俺の隣で珍しくもぼんやりと空を眺めているのは羅刹、あるいは悪鬼と畏怖されるつがい。
異国の絵札の示す符合は単なる偶然だろう。我々の縁は庭師と百花の王のみが承認するもので、他の証立てなど不要だ。それでも、一度なりとも見てみたいと思った。柳と、雨と、鬼の札を。

「どうした?」
「…いや、なんでもない」

あまりにも長く黙りこくっていた為か、周霖(しゅうりん)の声には幽かに案じるような響きがある。
景陵に居を構えてそこそこ経ったが、旅から旅への生活との落差にまだ、心も体も付いていっていない気がする。対するつがいの方はどうなのだろうか。この暮らしに慣れ始めたらまた”狩り”に行く、と息巻いていたが、ご満悦の大夫があれやこれやと仕事を言いつけるので未だに叶わずにいる。…そろそろ我慢の限界が近いのではなかろうか。
大丈夫か、と尋ねたいのはむしろ俺の方である。幸い体調は良さそうだけれど、彷徨の血の方は義務から目を背けて、騒ぎ出す頃だ。

「寒いのか」
「うん?…いや、大丈夫だけど」

唐突に聞かれ、俺は男を仰ぎ見た。雨は降っているものの、寒さを感じるまでには至らない。袖も裾も長い衣袍を着込んでいるし、どちらかと言えば蒸すくらいだ。彼だって、襟元を乱雑に開いている。…これはいつものことか。



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