霍乱その後
世高が帰ったあと、室内は途端に静まりかえった。先ほどまでの喧噪が嘘のようである。
薄ぼんやりとまなこを開き、天井を眺めていた周霖だったがその内、規則正しい寝息が聞こえだした。彼の手をとり、枕辺に侍る。傲岸不遜を絵に描いたような面つきも、こうして眠っていると穏やかなものだ。薬に依るところが大きいのだろうが、何にしてもほっとする。
眠るつがいから、方剤の袋と水差しの隣に積まれた見聞書へと、視線を遷す。
大夫の置き土産であり、周霖と俺にとっては宿題だ。ちょっとした山になっているそれらを、ちょっとした丘程度にせねばならない。
「よし、」
人間であれば景気づけと称して酒でも呷るところだろうが、生憎と我々の気合の入れようといったら、掛け声くらいのものだ。
まず初めに、と財城見聞を手に取ったのは、かつてのつがいの思い出とか、懐古といった感情ゆえではなかった。単純に、以前の赴任地であったから予備知識をもって報告を読めるだろうと踏んだため。ところが、一頁目を開いたところで危うく閉じそうになってしまった。
「…なんだ、これ」
字が凄まじく汚い。壮絶に読みにくい。むしろこれは新しく開発された字体ではなかろうか。蚯蚓(みみず)がのたくったどころか、百足(むかで)が死の舞踏に興じたかのようだ。国試だったらまず、落第になる酷さである。この見聞をしたためた風俗使はそれこそ、酒を呑みながら筆を取ったのかと思わせるほどだ。…正直、酔った。
必死に解読を試みながら思い出す。そう言えば内部の異動があって、担当が幾人か変わったのだ。煌々が拍手喝采をしていた。神経が磨り減るような見聞書を出してくるやつがいたが、西方へ配置換えになった。目がおかしくなる前で助かったぜ、と。山吹の二人が担当するのは東、そして周霖と俺の割り当ては―――西だ。
不幸中の幸いか、内容自体は微に入り細を穿ち、かつ非常に分かり易い。必要と判断したときは身分を隠して調べたと思しき箇所もあった。欠点は字だけ。これは苦労を汲んで読まねばなるまい。
腹腔に力を籠め、気合を入れ直す。すると、ふ、と笑う気配がある。
「…おまえの場合、百面相というよりは四面相くらいだな」
「周霖」
横たわった男はどこか浮遊感のある眼差しで俺を、もしくは俺の背後あたりを見ていた。紐綴じの冊子を山へ戻し、身を乗り出す。
彼の顔は仄かに赤かった。布巾を退け汗ばんだ額へ触れると、案の定、いまだ熱い。一眠りしたから少しは落ち着いたかと期待したが、大夫と悶着を起こしたのが悪く働いたかもしれない。水布巾でなく、解熱薬を塗布したものに変えようかと、悩む。
「…体じゅうベッタベタで気持ち悪い。くそ、餓鬼のとき以来だぜ。こんな、」
「衣を代えよう。その前に体を拭いた方がいいか」
珍しくも自嘲じみた物言いに、しかし、慰めや気遣いは不要だと思った。こういった場合どうすべきか、何が最良なのかは、実のところまだよくわからない。周霖が希むなら(そして俺のする慰めとやらに効果があれば)話は別だが、まずは現実的なところを優先させた。煌々によれば、それが俺の性格傾向なのだとか。
暖炉に掛けた鉄鍋から湯を取り、盥に張った水で割る。体を拭くための布、代えの床袍を臥榻の足元から引っ張り出す。こまこまと動き出した俺を男は黙って眺めていた。
そして、一言。
「なんだか楽しそうじゃないか。…あ?伎良よぉ」
「…え、」
思わず動きが止まった。
楽しそう?俺が?
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