霍乱
馬鹿は風邪をひかない、という言葉がある。ひとによると、「馬鹿は風邪をひいてもそうと認識しない、ひいているのに気が付いていないだけだ」とのことだが、実際のところは不明だ。何せ、花精は風邪なぞひかないからな。
我々の病は死病と相場が決まっていて、重篤な怪我か、あるいはそうした病に罹患しない限りは簡単に枯れたりはしない。身体的な理由よりも精神的な理由で、より負荷が掛かる生き物のようである。花護との関係がそれだ。
蟲に喰われるのは別。連中の餌食になったが最期、まず大抵は次代を立てるまで空白が発生する。下手をすれば種そのものが滅ぶ、もっとも忌避したい死に方である。
話を元に戻そうと思う。愚かな人間は風邪をひかない、らしい。つまり周霖は馬鹿ではないということだ。慰めにもならないが念のためそう告げると、花護はぎりぎりと歯軋りをし、熱で紅潮した顔をさらに赤くした。よって、失敗を悟った。およそ、俺にこの手の追従は不向きである。
「うはははははは!いいざまねぇ、周霖!」
「…伎良」
「なんだ」
「この男女を黙らせろ。もしくはどこかへ連れて行け。目障りで…しようが、ない」
荒い呼吸に押され途切れる語尾が、えも言われず憐れで、ともかくも氷を割ることに専心する。琺瑯の盥に医士から貰った氷をあけ、錐でがつがつと砕く。周霖の願いを叶えるよりも、そちらの方が遙かに容易かつ有益に思えたから。
「あらぁ。折角見舞いに来て遣ったのに、そんな物言いは失礼じゃない。ね、伎良」
氷嚢を用意する俺の隣には見舞客が来ていた。
仁王立ちでふんぞり返って高笑いをする官吏の腰には、巨大な包丁にも似た、片刃の厚い剣鉈が吊されている。都察院左房の大夫、名を煬家の世高(せいこう)という。
周霖や俺の上司にあたり、特に周霖にとっては縁戚でもある。謝家が主筋であるなら煬家は支庶だ。但し、世高の方が年嵩だし、位だって上だから、殊更に周霖を持ち上げることはしない。むしろ容赦なく叱責し、必要とみれば罰刑も科す。
黒い巻き毛に、深い菫色の目、体つきは俺のつがいほど大柄ではないが、薄手の衣からはしっかりした筋肉に覆われた四肢がのぞく。凄艶とも表せる容貌は、瞼、睫毛、頬紅に口脣まで、隙無く化粧が施されている。…正直なところ、うつくしさよりも威圧感が勝る。
つがいの手前もあって、首肯しかねていると大夫の柳眉が勢いよく吊り上がった。
「なにそのはっきりしない反応は!…まさか、あんたまで帰れとか、言わないわよね」
奇麗に染められた紅緋の爪がつやひかる口脣に宛がわれ、傾城もかくや、と言った仕草でしなをつくっている。たまらず周霖がうげえ、と漏らした。美形ではあるが、およそ女に見誤るような容姿、体格では無いのだ。それでも世高は、口調や物腰を徹底的に女性らしく装う。衣袍も太股に際どい切れ目の入った、薄い羅衣を好んで纏い、玉や金銀の装飾品で鍛え抜かれた身を飾る。
彼にはひとつの噂があった。
男のしるしを断っているらしい、いうもので、そのために「羅切大夫」と仇名されたり、周霖の父に通じて今の位を得たなどと陰口を叩いたりする者もあるとか。
羅切あるいは腐刑とは、陰茎を切り去勢することを意味する。残酷に過ぎるとして、春苑においては公に禁じられているが、旗人の中には罪を犯した下人や、私戦で捕らえた政敵に腐刑を処することがあった。無論、完全なる私刑なので、露見したら最期、執行した人間が罰される。
当人が否定も肯定もしないので、本当のところはわからない。ただ、この流言を耳にすると大夫のつがい、牡丹精の阿僧祇(あそうぎ)は烈火のごとく怒り、相手構わず鉄槌を下した。百花王に次ぐと畏怖される彼女が嫁したのだ、世高もまた並の花護ではない、ということだ。武官を集めた御前試合や手合わせにおいて、俺の知る限り周霖と世高の勝敗は五分五分か、前者が僅かに悪い結果で終わっている。
都察院左房が万魔殿、と揶揄されるゆえんのひとりが、この牡丹の花護である。もうひとりは哀しいかな、俺のつがいだ。
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