(4)



苦笑いをすると、何がおかしいのか、と初めて腹立たしげな返事があった。

「おかしくて笑ってるわけでもなくてさ、」
「へらへらしてる場合じゃねえだろ。剣鉈を玩具にしながら、口だけで生きてやがるような連中の怠慢は、即ちお前の怠慢だってことを忘れるなよ」
「…周霖からそんなことを言われるとは心外だな」
「…くだらねえことばっか抜かすからだ」

低くそう呟く男は、一刻も早くこの場から、いや、景陵から立ち去りたいといった風情である。
そこそこ話し込んでいるにも関わらず、供をするべき花精が現れる気配がないのを見てとり、青年は巨躯の背後に四角く塗りつぶされた暗闇を睨んだ。柳は確かにあそこへ引き摺り込まれた筈なのだ、煙と消えていなければまだ、庫内に居るのだろうが。
…音すらしない。悪い兆候だ。

黙り込んだ青年の態度を、男がどう解釈したのかはわからない。湖水色のひとみが見つめる方向をちらりと確認すると、苛々と舌打ちをした。

「…無駄話はもう終わりだ。じゃあな、鶯嵐(おうらん)」
「…周霖」

執政を呼び捨てる不敬も、彼にはさしたる問題ではないのだろう。
青年にとっても、大したことではなかった。

庭を預かるために、滞りなく政を行うために、確かに権力は必要だ。人の王となって、春の庭に住む人間と花精はすべて青年の前に額づいた。青年の個や人格に膝を折っているのではないことくらい、重々承知している。それでも、疎かにするつもりはないが、格別な執着もない。
強いて言えば千里の存在だ。あのたおやかで誇り高い桜精のために、己は執政になった。

権力欲、偽善。恋情でも、何だっていい。
位を戴いた以上は果たさねばならない責務がある。いみじくも周霖が口にしたように、臣下の怠慢は瑠璃紺の衣を纏った者の怠慢であるから。
たとえ、眼前の相手がどんな権威にもこうべを垂れないと知っていても、百官の長として言わねばならないことがあった。
背を向け、立ち去ろうとするところを、名前を呼んで引き留める。

「はなむけの言葉には程遠いが、これだけは伝えておこう。…おれが庇うのも限度がある、次はないぞ、周霖」
「次」
「そうだ」

青年は頷いた。
さも億劫そうに、振り向いた途中の姿勢で男は静止した。その無表情は想定の範囲内のことだ。

「次に柳精を枯らしてみろ。幾ら玉条に背いてないとは言え、お前を糾弾する声をこれ以上、抑え込むのは難しい。花精からもどうにかしてくれと嘆願が出始めているんだ」

つい先日も、恐れながら、と射干(しゃが)と山吹が陳情に来たばかりだ。
ひとの領分に入る花護の去就について、花精が口を出すなど前代未聞である。周霖の重ねた行いの結果、事はそこまで来ているのだと暗に臭わせた。

「はあ、そうかよ」
「…はあ、じゃない。真面目に聞け」
「誰も庇ってくれなんて頼んじゃいない。世高といい、お前といい…どいつもこいつも、恩着せがましいったらありゃしねえ」

男の言う「どいつもこいつも」はその実、たった三人しか存在しない。
執政の自分と、都察院大夫の世高、そして同僚にあたる万廻。周霖の父親は既に官位を辞し、謝家の当主として領地の管理にあたっている。庭府に働きかけるちからは無視できなかったが、身内の庇護というもの、行き過ぎれば却って一族ごと窮地に陥る羽目になる。しかも謝家の中ですら、離反者が現れだしているのに。
だがその真実を伝えたところで、素直に聞くような男ではないのだ。言葉を選びつつも、その徒労に些か虚しくなる。

「…そうかもしれなくても、俺の言ったことは心に留めておいて欲しい。友人の忠告だと、受け止めてくれ」
「…―――」

うららかな晴天と、緑に彩られた庭を背に立つ自分と、変わらず暗がりの回廊に居る男はほんとうに対照的だ。
けれど、鶯嵐は思う。
どこかで、なにかが掛け違っていれば周霖と己の立場は逆であったかもしれないと。
ひとびとは有り得ぬ仮定に驚くだろう。空気を和ませる術に長ける、執政の戯れ言だと笑う者もいるだろう。おそらくは鶯嵐が墓まで持って行くであろう思いに、もし同意する者が居たとしたら、―――たったひとり、冷ややかな視線でこちらを流し見ているこの男をおいて、いない。

「…その気もねえのに薄ら寒いこと言うな、気色悪い。…まだ頭ごなしに命令された方がなんぼかマシだ」

柳の花護は先ほどまでの分かり易い憤怒を、すうと引っ込めた。即座に彼の手元を注視する。手は剣鉈の束に掛かることなく、だらりと下がったままだ。
執政に斬りかかるような愚行は犯さないだろうが、…確かに感じたのだ。瞬時に膨れあがり、そして錐のように細く穿たんと向けられた殺気を。



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